第17章 躊躇と決意と



   手術室から病室に戻ってきて一時間――、ヴァロワ卿はまだ眠っていた。
   手術後の医師からの呼びかけには応じたようだが、まだ麻酔が完全に切れていないようだった。
   手術を終えてから、担当医は言った。
   足はもう動かないということを――。

   一縷の望みをかけて手術に挑んだというのに、ヴァロワ卿の右足には感覚さえ戻らなかった。一生、杖が必要な身体になるという。そうなると、左足や腰にも負担がかかるようになる。そのため医師は、動かない右足を切断して義足とした方が良いと提案した。
『それしか……、方法が無いのか……』
『一番確実な方法です。まだお若いことを考えれば、その方が宜しいかと……』
   だが――、以前、ヴァロワ卿は切断までの意志は無いと言っていた。足が多少不自由になっても、家でのんびり暮らすから良いと――。

   こうなったのは俺のせいだ――。
   あの時俺が――。

   ヴァロワ卿の指がぴくりと動く。ヴァロワ卿、と呼び掛けると、眉根が少し寄り、瞼がゆっくりと持ち上がった。
「ヴァロワ卿。具合は?」
   問い掛けると、ヴァロワ卿は瞬きを繰り返してから、大丈夫だ――と応えた。
「ずっと……、此処に居てくれたのか……?」
「はい。麻酔から眼が覚めるまではと思って」
「ありがとう。もう大丈夫だ」
   起き上がろうとするヴァロワ卿を押し止めた時、ヴァロワ卿は何かに気付いた様子で一点を見つめた。
「……足、駄目だったようだな」
「ヴァロワ卿……」
   ヴァロワ卿は手術を終えてすぐに医師に問い掛けたらしい。足はどうなったか――と。
「そんな顔をするな……。手術を受けても駄目かもしれないことは解っていたことだ。医師からもそう言われていたのだからな……」
「……すみません……」
「何故、お前が謝る? これは私の失態が引き起こしたことだ」
「ですが、ヴァロワ卿が万全の状態であればこんなことには……!」
「きっと同じだ。フォン・シェリング大将と少将の力量を過小評価していたのだから……」
   ヴァロワ卿はそう言って笑む。だから気にするな――と優しく俺に告げる。
「……それよりも……、フェルディナントの具合が悪いのだろう? 私としては其方のほうが心配だ」
   ルディは裁判を終えて帰宅してから熱を出した。まだ完治していない身体で、無理がたたったのだろう――と医師が言っていた。屋敷に皇妃が来ていたことで気を張り詰めていただろうし、裁判でもそうだっただろうから、無理も無いことだった。
「ルディなら大丈夫です。発熱したといってもいつもの風邪のような症状ですから……。ミクラス夫人に監視されながら眠っていますよ」
   そう告げると、ヴァロワ卿は少し笑った。その後、医師が診察に来て、異常は何も無いということを聞いてから、病室を後にした。



「そうか……。駄目だったか……」
   帰宅して、ルディにヴァロワ卿のことを伝えた。ルディはまだ微熱があったが、大分回復したようだった。
「自由に動き回るためには義足しかないらしい。ヴァロワ卿は義足までは考えていないようだが……」
「それはそうだろう……。見たところ、ヴァロワ卿の足には何の異常も無いように見えるから……」
「ヴァロワ卿は自宅でのんびり暮らすと言っていた……」
   ヴァロワ卿も軍に戻る意志は無い。公職停止期間が明けても、自宅で本を読んで暮らすと言っていた。
『私はもともと早期退職を希望していたからちょうど良い。これまでの貯蓄と退職金で、今後の生活にも困りはしない。これからは趣味に生きる』
   そう言っていた。だが――。
「なあ……、ルディ」
「何だ?」
   ルディを見遣ると、頬がまだ赤いことに気付いた。額の上に乗せたタオルを取って、水に浸す。それを固く絞り、再びルディの額に置く。
「ありがとう。……それで何だ?」
「いや……」
「何だ……? 却って気になるが……」
「大したことではないんだ。お前の熱が下がったら、前に言っていた旅行の計画を立てようかと……」
   咄嗟に思いついたことを言うと、ルディは驚いたように少し眼を見張った。それから笑みを浮かべ、もう少し後の方が良い――と言った。
「公職停止期間中ということは派手な行動は避けるべきだ。停止期間が明けてから、心おきなく行きたい」
「それもそうだな。解った」



   本当は――、別のことを考えていた。
   裁判を終えた時から悩んでいた。
   否、裁判を取り上げた報道を見てからだった。マスコミは一斉にルディとヴァロワ卿の復職を望んでいる。ルディとヴァロワ卿の戦時中の行動が、俺が予想していた以上に評価されている。
   もしかしたらフェイやアンドリオティス長官は、こうなることを見越していたのかもしれない。国民の絶大な支持があれば、ルディもヴァロワ卿も動かざるを得なくなる、と。
   そしてルディがこんなにも国民から期待を寄せられているのに、本当にこのままで居て良いのかと、俺自身も悩んでしまう。


「ハインリヒ様。フェルディナント様はお休みになられました?」
   ルディの部屋を出て階段を下りていると、ミクラス夫人が声をかけてきた。
「ああ。今、眠ったところだ。珈琲を淹れてもらえるかな、ミクラス夫人」
「解りました。リビングルームにお持ちします」
   リビングルームで待っていると、程なくして、ミクラス夫人が珈琲と焼き菓子を持って来てくれた。
「フェルディナント様、ヴァロワ様の手術が気になると仰ってずっと起きてらして……。お休みにならないと熱も下がりませんよって注意したのですが、気になって眠れない御様子で」
「眠りに落ちるのが早いと思ったらそういうことか」
「ええ。ハインリヒ様、ヴァロワ様の足は……?」
   ルディに話したことと同じことを話すと、ミクラス夫人は痛ましげな表情で、お辛いでしょうに――と言った。
「ヴァロワ様もまだお若いのに……」
「……ミクラス夫人。ヴァロワ卿もルディも俺も……、復職した方が良いのかな」
   何気なく問い掛ける。
   悶々として自分で決断の糸口を掴めなかった。ルディもヴァロワ卿も公職停止期間中であるし、まだ回復していないから、悩む時間はあるとはいえ――。

「……私は……、そうですね、ハインリヒ様やヴァロワ様は復職なさった方が宜しいかと思います。……ですが、フェルディナント様にはこのまま引退していただきたいと思うのです」
「……ミクラス夫人は元々、ルディが外交官となるのも宰相となるのも反対だったからな」
「ええ。フェルディナント様のお身体には大きな負担となってしまいますから……。今であれば、フェルディナント様も納得なさっています。私としてはこのまま……と」
   香りの良い珈琲を飲みながら、一息吐く。
   答えを出すには当分、悩まなければならないようだった。


[2010.6.13]