「ルディ! 動いて大丈夫なのか!?」
   部屋を出て廊下を歩いていたところ、ちょうど帰ってきたロイがそれを見咎めて階段を駆け上がってきた。
「ああ。今日から歩行訓練を始めたんだ。少しなら歩いても構わない」
   まだ足がふわりふわりと宙を歩いているようで、地を踏みしめている実感が無かったが、何とか両足で立つことは出来た。これまでの不調を思い返せば、格段の回復だった。
「そうか……。しかし無理はするなよ」
   ロイがそっと背を支えてくれる。ありがとう――と礼を告げると、ロイは部屋へと促す。支えられながらゆっくり歩いて部屋に向かう。
「フェルディナント様! 何をなさっているのです!?」
   部屋の扉の前までやって来た時、ミクラス夫人が咎めるような声を上げた。
「少し歩いて身体を慣らしていただけだ」
「まだそんなことの出来るお身体ではありませんよ。今日漸くベッドから出たばかりではありませんか」
「……やっぱりそうだったんだな、ルディ」
   ロイがちらりと私を見遣る。廊下を歩くぐらい大丈夫だ――と返すと、二人が口を揃えてまだ無理だと返した。
   しかし嘘は吐いていない。歩行訓練を開始したのは事実であるし、こうして起き上がっていてもこれまでのように眩暈を覚えることもない。
「……ロイもミクラス夫人も心配しすぎだ」
   私がそう告げると、二人はすぐに反論した。先月大手術を終えたばかりではないか――と、二人は口を揃える。
「回復を焦ってどうする。余計に身体を壊すぞ」
   焦っている訳ではない――と言いかけて口を噤んだ。

   ロイの指摘通り、確かに私は焦っていた。
   10日後に裁判が開かれる。皇帝と私とヴァロワ卿の裁判を同日に行うことが決められていた。長い裁判となるだろうに同日に行うことになった。レオンやフェイ次官に何か魂胆があるような気がしてならなかったが、兎も角、裁きを受けることが決まって安堵していた。
   その裁判は全世界に公開される。公開裁判となる。そんな場で、このように弱り切った姿は見せたくない。まるで罪から逃れようとしているようだから、せめてその日だけでもきちんとした姿で出廷したい。
   幸い、身体は大分回復した。しかし当分、歩いていなかったことで足が萎えてしまい、自分の身体を支えることすらも出来ない。今日から歩行訓練が開始されたものの、思うように足が動かなかった。
   ロイに支えられて部屋に入り、ベッドの上に腰掛ける。ミクラス夫人が上着を持って来て羽織らせてくれた。

「ルディ。少し話したいことがあるんだが……」
   ベッドに入り身体だけを起こして一息吐くと、ロイがそう言ってきた。頷くと、ミクラス夫人が退室する。ロイは私を見て話し始めた。
「ずっと黙っていたんだ。まずそのことを謝っておく。……ルディの身体が回復するまではと思ってのことだ。それ以上の他意は無い」
「そうか。気を遣わせてしまったのだな」
   すると、ロイは言いづらそうに視線を落とす。

   ロイが何を話したいのか、解った。私自身、薄々気付いていたことだった。
「……マリ様が亡くなったか。否、遺体が見つかったか」
「ルディ。何で……」
   ロイは驚いて顔を上げる。やはりそうだったのだろう。それは何となく解っていた。ロイが一言も皇女マリのことを話さないこと、探しに行こうともしていないこと――。
   そしてロイばかりでなく、ヴァロワ卿も皇女マリのことを口にしない。そうなると、皇女マリが最早行方不明ではなく、何らかの形で発見されたということになる。そしてそれは残念な結果だったのだろう。もし生存していたのなら、ロイがそのことをもっと早く私に伝えていた筈だから。
   それをロイに話すと、ロイは、隠し事は出来ないな――と悲しげに笑った。
「ヴァロワ卿が遺体を見つけてくれたんだ。ルディがアクィナス刑務所に入っている時のことらしい。アクィナス刑務所のあるテルニの山中で女性の遺体を見つけ、鑑定の結果、マリだと判明した。……変わり果てた姿だったよ」
「行方不明となる少し前に、マリ様が一切の権限を私に譲渡するという文書に署名したんだ。帝国をお願いします――と私にそう言ってな。……思い返せば、あの時から宮殿を抜ける計画を立てていたのだろう。お前と逃亡してからマリ様には24時間の監視体制が敷かれていたが、その隙を見計らって……」
「マリは宮殿の抜け道を知っていたから、それを使ったんだろう。……でもまさか、俺も逃げるとは思わなかった」
「ロイ……」
「別れる間際にマリに言ったんだ。相手がルディなら悪い風にはしないから、幸せになれと。だから……、マリが行方不明となったと知った時には本当に驚いた」
「……お前のことを本当に愛していたのだろう」
   私が考えていた以上に、ロイと皇女マリは愛し合っていた。皇女マリの失踪は私にそれを思い知らされた。
「……ルディに相談すれば上手く逃げられたのかもな」
   ロイは肩を竦めて呟く。だが私はそうは思えなかった。
「あの時の包囲網は容易には破れなかった。憲兵の眼を欺くことも容易くなかったろう」
「だがお前はアンドリオティス長官を上手く逃がしたじゃないか。車だと人目につくからと、列車を選んだが……、きっとそれは浅はかな考えだったのだろうな」
「いや、私が上手く逃げおおせたのはヴァロワ卿のおかげでもあるんだ。レオンを連れ出してすぐにヴァロワ卿と蜂合って……。きっとヴァロワ卿が上手く蒔いてくれたんだと思う」
   するとロイはそうだったのかと言って笑んだ。
「私の場合、運が良かっただけだ。それよりも……、マリ様の御遺体は……?」
「今は警察署で安置してもらってる。それで……、ルディ、俺が遺体を引き取りたいんだ」
「ロイ……」
「ロートリンゲン家の墓所に葬りたいんだ。出来るだけ早く。もう随分待たせてしまったから……」
   ロイによると、遺体は既に白骨化していたらしい。ロイは皇女マリの遺体は棺に収めてあって、あとは埋葬するだけだと言った。
「解った。葬儀には私も参列する」
「ルディ……。ありがとう」
「フリッツに葬儀の手配を頼めば取りはからってくれる。ところでマリ様の訃報は皇帝には報せてあるのか?」
「……アンドリオティス長官には報せてあるから、多分其処から伝わっていると思うが……」
「ではレオンを通じて、ロートリンゲン家で葬儀を執りおこなうということを伝えておくことだ。皇妃の居場所は掴んでいるのか?」
「皇帝は兎も角、皇妃には報せようと思ったんだが、居場所がよく解らなくて……」
「ヴァロワ卿には尋ねたのか?」
「ああ。ヴァロワ卿にもウールマン卿にも尋ねた。女官長にもな。はじめはブリテン王国の王室に身を寄せていたことまでは解っているんだが、今は違うようで……」
「ブリテン王室か……。確かに皇妃と繋がりがあるな。皇妃の母方がブリテン国王の妹御にあたるから……」
   だがそのブリテン王室も、この世情にあっては皇妃を庇いきれなくなったということだろう。皇妃はブリテン王国には居るのだろうが、こうなると確かに居場所を掴むのは難しくなる。
「ブリテン王室に問い合わせても、居なくなったの一点張りらしい。王室全体で隠しているようでな」
「ならば……、仕方が無いな」
「それで……、葬儀のことなのだが、週明けに行っても構わないか?」
「私は構わないが……」
「陽の当たるところに葬ってやりたいんだ。マリが発見された場所も山奥で、殆ど陽も当たらないような場所だったから……」



   ロイの希望で、週明けの月曜日に葬儀を執り行った。ヴァロワ卿もこの日は外出許可を貰って、参列してくれた。
   皇女マリの棺はロートリンゲン家の一角に収められた。ロイの表情は終始暗かったが、埋葬を終えた後で、墓石に花を添える際、悲しげだったが少しだけ笑みを浮かべた。きっと皇女マリに向けた笑みだったのだろう。
   そして葬儀以来、ロイは再び皇女マリのことを話題に上げなくなった。私もなるべくその話題に触れないようにした。

   ところが、それから三日が経った日のことだった。
「フェルディナント様!」
   身体を起こして本を広げていると、ミクラス夫人が血相を変えて部屋にやって来た。どうかしたのかと問うと、私を見つめて、お電話です――と伝える。
「皇妃様から……」
   皇妃から電話――。
   流石に私も驚いて、言葉を失った。


[2010.5.29]