「まだ起きてらしたのですか?」
   病院の消灯時間は早く、私にはどうも馴染めなくて、手許の明かりを点けて本を読んでいた。巡回にやって来た看護師がそれを見咎めるように病室に入ってくる。昨日も注意を受けたばかりだった。
「11時になったら休むから、それまでは……」
「退院間近なら兎も角、意識が戻ったばかりの身体なのですからいけません。明かり、消しますよ」
   病院の規則は軍よりも厳しく、看護師は無情にも明かりを消す。仕方無く本を閉じた。
   しかし眼を閉じても、眠気はなかなか襲って来るものではなかった。昨晩もそうだった。ひと月近く意識不明のまま眠っていたのだから、その間に充分に睡眠が取れたのだろう。それでなくとも普段は大抵、4、5時間の睡眠なのだから。

   それにしてもひと月か――。
   意識不明だったから当然だが、全く何も憶えていない。フォン・シェリング大将に撃たれて、撃ち返したことまでは鮮明に憶えているが、それ以後のことは記憶が曖昧になる。眼の前が暗くなっていき、カサル大佐とハインリヒの声を聞いた。私が憶えているのはそれぐらいで、後のことは何も憶えていない。
   ただ、その時は――。
   銃弾を受けた右足に火を点されたかのような熱を感じていた。その時は、右足はまだ少しは動いていた。
   今は――。
   右足は全く動かない。動かそうにも動かし方を忘れてしまったのではないかと思われるほど、ぴくりとも動かない。

   神経を断絶したらしい。今月の中頃に神経を繋げる手術が予定されている。だが、その手術を受けたとしても、足は元通りには動かないだろうと医師は言った。手術によって僅かな感覚は戻るが、走ることは勿論、歩行も難しいかもしれない、と――。
『もし感覚がうまく戻らないようであれば、右足を切断し、義足にするという方法もあります』
   切断して義足――。
   流石に即答は出来なかった。足を失うことに抵抗を感じた。
   だが、今は右足に触れても何も感じない。痛みも無いが、重い鉛を身体に下げているようで寝返りをうつのも億劫になる。
   不自由となった片足にこのまま慣れるか、それともいっそのこと切断して義足を使うか――。
   医師の言っていた通り、動き回ることを考えたら義足を使う方が良い。義足に慣れれば、不自由なく動けるようになる。それも言われなければ義足と解らないほど、今の義足は性能が高い。

   だが――。
   切断となると、躊躇がある。
   それにもう私も良い年だ。退役するにちょうど良い時期でもある。これを機に退役して、家でのんびり暮らすことも悪くない。そうなると、あまり動く必要もなくなるから、片足が不自由であっても、大した問題にはならない――。

   まあもう少しゆっくり考えようか――。
   右足を摩りながら苦笑する。手術をするにしても、肝臓と肺の傷が回復してからのことだった。


「失礼します」
   久々に聞くその声に自ずと笑みが零れる。フェルディナントの声だった。今日、フェルディナントが検査を終えた後で、見舞いに来ることになっていた。
   扉から現れたフェルディナントは車椅子に座っていたものの、最後に会った時と比べて、格段に顔色が良くなっていた。
「お加減は如何ですか」
「私は大分良い。フェルディナントも回復したようだな」
「ええ。今、検査を済ませてきたところですが、異常無しとの結果でした」
「それは良かった。ハインリヒも随分心配していたからな」
   フェルディナントは微笑して頷く。アクィナス刑務所から救出された時のフェルディナントは、見る影も無い程に痩せ細って弱り切っていた。まだ痩せてはいるが、少しは体重も戻ったように見える。
「私がアクィナス刑務所に収監されている間、私の刑を軽減するために色々動いて下さったとフリッツから聞きました。本当にありがとうございました」
   フェルディナントは改まって礼を述べる。だが結果的には、私は何も力になれなかった。
「何とか救出したいと奔走したのは事実だが、私は右往左往するばかりで何も出来なかった」
「いいえ。ヴァロワ卿の御尽力あって多方面への働きかけが出来たと、従兄のゲオルグも言っていました。それにロイが帰ってきてくれたのも……、ヴァロワ卿のおかげです」
   話は聞きました――と、フェルディナントは言う。きっと私がハインリヒの許に行って帝国に帰るよう説得を試みたことを聞いたのだろう。礼を言われるほどのことでもない――と告げると、フェルディナントは首を横に振った。
「ヴァロワ卿にはいつも支えられてばかりです。今度は私に何かお力になれることがあれば、仰って下さい」
「ありがとう」
   こうしてフェルディナントと話をしていると、時間が半年前に戻ったかのような錯覚を受ける。帝国はまだ動乱している最中だが、何となく暢気に構えてしまう。
フェルディナントは一息置いてから、ヴァロワ卿、と呼び掛けた。
「皇帝の裁判の日程が決まりました。……皇帝だけでなく、宰相であった私自身も裁きを受けるべきだと考えています」
「私もそうするべきだと考えている。ハインリヒには少し話したが、皇帝の許で侵略に加担した人間は裁かれなければならない。新トルコ共和国領シーラーズを攻略したのは事実だからな」
   フェルディナントは、ええ、と頷いて応える。
「アンドリオティス長官やフェイ次官が、私達には裁判の必要は無いと言っているようですが、私はやはり裁判を経ないと、いつまでも自分の身に整理がつかないと思うのです。今後、この国が侵略を許さないという証明のためにも……」
「同感だ。それで、皇帝の裁判の日程は?」
「今月の中旬、11月20日に決定したとロイから聞きました」
   11月20日――、皇帝の裁判は傍聴したいと思っていたが、19日に右足の手術が予定されていた。
「傍聴したいが……、フェルディナントは?」
「私は傍聴に行く予定です。ヴァロワ卿はどうなさいますか? 行かれるのなら、ロイの車で……」
「そうだな……。実は前日に手術の予定が入っているのだが……。皇帝の言い分も気にかかる。ウールマン大将の話では、皇帝は全ての罪をフェルディナントやフォン・シェリング大将に帰しているようだからな」
「ですが、手術を受けて翌日に出歩くことは……」
「ああ。医師に延期してもらうよう話してみる。皇帝の裁判の結果は、私達の裁判にも影響することだ。傍聴は必要だろう」
   フェルディナントは少し悩むような顔をしてから、頷いた。そして足を見遣り、足の具合を問い掛けてくる。
「今は何の感覚も無い状態だ。手術をすれば多少の感覚が戻るらしい」
「……歩行が困難となるかもしれないと聞きましたが……」
「慣れるまでは杖を使えば良い。左足は何の問題も無いから、今でも部屋のなかは歩き回っているんだ」
「あまり無理はなさらないで下さい」
   フェルディナントは気遣わしげに言う。ああ――と応えてから、話題を転じた。
「ところで……。副宰相からもアンドリオティス長官からも復職の要望が来ていると聞いたが」
「皇帝の宰相であった私は復職すべきではないと考えています。私は裁判を受けた後は、マルセイユでのんびり暮らそうかと思っています」
   ハインリヒからも聞いていたが、意志は固いのだろう。こういう意志の固さというか、頑固なところは父親である元帥閣下によく似ているというか――。
「まあ、私も退役するつもりだし、人のことをととやかく言えないが……。皇帝に対し、体制移行を進言してきたのは、宰相であったフェルディナントただ一人だ。それを考えると、せめてこの混乱した期間だけは宰相として留まっても良いと思うが……」
「ヴァロワ卿まで……。ヴァロワ卿こそ、長官に復帰していただく話が来ているとロイから聞きましたよ」
「私は退院したら退役する。軍紀違反をいくつか犯しているから、責任を取らなくてはならない」
「ヴァロワ卿……」
「それに退役にはちょうど良い機会でもあるんだ。もともと早期退役を望んでいたからな。今年でもう46歳。軍人として24年も勤め上げれば充分だ」
「……父も早期に退官しましたが、それでもヴァロワ卿の年齢より10年先のことですよ」
   その後、暫く歓談し、裁判に関してはなるべく早期に裁判を行ってもらえるよう、フェルディナントが政庁に連絡を取ってくれることになった。
「フェルディナント、裁判に傍聴に行ったり、政庁と連絡を取ったりと、そんなに動いて大丈夫か?」
「こういうことはあまり先延ばしにしない方が良いですから。それに体調も良いので大丈夫ですよ」
   この国のことを考えれば、確かにその通りではあるが――。
「無理はするなよ」
   フェルディナントは微笑しながら、ええ――と応えた。



   私の病室には、軍の関係者を中心に、毎日人が絶えなかった。私が入院していることを何処から聞いたのか、旧い知人やアントン中将夫人まで見舞いに来た。
「そうして足が不自由になったということは、そろそろ伴侶を見つけなさいということですよ。きっと夫のヴィクトルも天国でそう言っています」
   私に結婚を勧めるアントン中将夫人は、相変わらずだった。もうこんな年齢だから結婚などまるで頭に無いのだが――。

   それにしても――。
   時間が足りなかった今迄と違い、この頃は一日一日がゆっくりと過ぎていくような気がした。


[2010.5.16]