「宰相……!」
   ヴァロワ卿の病室の扉が開かれた時、ウールマン大将の姿が視界に入った。彼は驚いた顔で私を見つめた。
「御無沙汰しております。ウールマン大将。色々とご迷惑をおかけしました」
「迷惑などと仰らないで下さい。私は何も宰相のお役に立てなかった……。申し訳ありませんでした」
   ウールマン大将は丁寧に頭を下げる。ウールマン大将こそ随分苦労したことだろう。参謀本部長という立場で、今回の戦争に踏み切ることには反対だったようだから、守旧派からは相当な糾弾があっただろうに。
「いいえ。ウールマン大将もヴァロワ卿も……、今回の戦争では骨を折ったことでしょう」
   そっとヴァロワ卿の許に近付く。ヴァロワ卿は眠りについたままだった。人工呼吸器等の生命維持装置が、ヴァロワ卿の身体に繋がれている。こうして見ていると、ただ眠っているだけのように見えるのに――。
「ロートリンゲン大将。医師はヴァロワ大将の御容態を何と……?」
   ウールマン大将の問い掛けに、ロイは黙り込んだ。振り返ってロイを見遣ると、ロイは胸元から紙を一枚取り出した。
「回復の見込みが薄いと言われました……。決断を求められています」
「決断……?」
   ウールマン大将が聞き返す。ロイは黙って俯いていた。
「ロイ、その紙は……?」
「……ヴァロワ卿が入隊時に提出した自己決定の書類だ。植物状態となった時には延命を希望しないと……、書いてある」
   ウールマン大将は低い声で、そうでしたか、と呟いた。
   延命を希望しない――、それはヴァロワ卿の意志なのだろう。
   それでロイはずっと悩んでいたのだろう。

   延命を希望しない――か。

   医師がロイに決断を求めたということは、回復の見込みが無いのかもしれない。今はかろうじて心臓が動いている状態なのかもしれない。
   だが――。
   ヴァロワ卿、貴方は私に言ったではないか――。
   生きろ――と。
   貴方自身が言った言葉ではないか――。



「ロイ、その書類を貸してくれ」
   ロイが手渡したその書類を一瞥する。確かに延命を希望しないという欄にチェックが入り、署名も施されている。
   それを勢いよく破る。ビリッと音を立てると、ロイが驚いた声でルディ――と呼び掛けた。
「医師にはこのまま治療を続行するように伝えてくれ」
「ルディ……」
「何か不都合があれば、私が責任を取る。それに……、ヴァロワ卿は必ず眼を覚ます」
   ウールマン大将は私を見遣り、それから力強く頷いて、そうですね――と同意した。
「ヴァロワ大将の休職届けを出しておきます。ヴァロワ大将はこれからの軍にとっても大事な方。必ずやまた復職なさいます」
   仕事が残っているので先に失礼します、と私とロイに向かって言ってから、ウールマン大将は去っていった。ロイはお疲れ様です――と応じてから、また黙り込んだ。
「ロイ。お前らしくも無いぞ」
「だが、ルディ……」
「大丈夫だ。ヴァロワ卿は私とは比べようも無い強い人だ。必ず意識を取り戻す」
   ロイはヴァロワ卿を見、それから頷いた。病室に戻ろう――と促されて、ヴァロワ卿の病室を後にする。車椅子を押しながらロイは、ルディは強くなったな――と、言った。



   その後も、ヴァロワ卿の容態は変わりなかった。退院当日、もう一度ヴァロワ卿の許に行った。ヴァロワ卿――と呼び掛けても返事は無かった。
   それでも信じ続けた。私に生きろと言った人だ。必ず意識を取り戻してくれる。
それに、ヴァロワ卿はやりかけの仕事を残したままにする人ではない――。



   一方、私は順調に回復していた。まだ部屋を出たりベッドを降りたりすることは出来ないが、起き上がって読書をしたり見舞いに来てくれる友人達との会話を楽しむことは出来るようになった。
   アランも見舞いに来てくれた。アランは既にアクィナス刑務所から出ているらしい。ジルをはじめ、アクィナス刑務所の殆どの囚人は無罪となったことを教えてくれた。皆、それぞれの生活に戻ったようだった。
「ルディも復帰するのだろう?」
「いや。私は復職しない」
「……何故? ルディが復帰したら、きっと俺達の望むような社会を作ってくれる、と皆言っていたのに……」
「私は旧領主層の人間だ。今後のこの国の発展を考えれば、私は表に出るべきではない。余生は静かに暮らすつもりだ」
「余生って……。まだ若いだろう」
   レオンも、そしてオスヴァルトも私に復職するように求めてきた。だが、私にはもうその意志は無かった。回復したら、帝都から離れ、マルセイユでのんびり暮らそうと考えていた。
「……だがルディ。俺は本当の民主主義というのはそういう身分に囚われないことを言うんだと思うぞ」
「それは私もそう思う。だが今の社会では旧領主層というだけで反動が起こる。それを回避するためにも、私は身を引いた方が良いんだ」
「俺はそうは思わん。ルディがこれまで何をやってきたのか知っているからな。この過渡期にこそ、ルディの力が必要になるんだと俺は思っているが……」
「ありがとう、アラン」
   アランは肩を竦め、ルディは頑固だ――と呟いた。
「言い出したら聞かない節がある」
   苦笑を返す。それから傍と気付いた様子で、ずっと起きたままで大丈夫か――とアランは気遣わしげに言った。
「ああ。昼は大抵、こうして身体を起こしているから大丈夫だ。……アクィナス刑務所では本当に世話になった」
「死にかけていたからなあ。今だから言えることだが、助からないかと思っていた。……実際、手術までは相当具合が悪かったらしいじゃないか」
「手術の前後はあまり記憶が無いんだ。だがそれがこうして元気になったのも、皆のおかげだと思っている。アランにも随分励まされた」
「改まるのは止めろよ。何だか気恥ずかしくなる」
   再び肩を竦め、アランは苦々しげな表情を浮かべた。
「ところで……、アランは裁判を終えたらどうするんだ? 確か大気用の保護膜の研究をしていたとか言っていたが……」
「ああ。……ルディには話しておこうと思ったんだ。俺は、前の生活に戻ろうかと思っていたんだが、これから一年、政治を勉強することにした」
「政治を……?」
   驚いて問い返すと、アランは頷いて言った。
「政治家を目指すことにした。まあ簡単な話ではないだろうが……、今のままの帝国ではまた俺のように罪の無い人間が逮捕されるような事態が起こりかねない。少しでも……、この国を変えたい。尤も俺はルディのように頭の良い人間ではないから、政治家になるには猛勉強しなくてはならないが……」
   さらに驚いてアランを見つめた。アランは笑って、ルディに触発されたんだ――と言った。
「私に……?」
「俺はたった一人が国を変えることなど出来ないと思っていた。実際、これまでの帝国はそうだろう。権力を持ったたった一人の人間が国を動かし、その他大勢の国民は意見することすら出来ない。だが、そんななかでルディが変えるきっかけを作ったんだ」
「私は肝心な時に何も出来なかった人間だ。それに一度は侵略戦争に加担した身でもある」
「ルディが新トルコ共和国の長官を逃がさなければ、帝国は従来の帝国のままで終わっていた。その時もルディは決死の覚悟だったんだろう。たった一度きりの人生だ。俺もそんな覚悟を持って物事をやり遂げてみたいと思ってな」
「アラン……」
「まあ、しかし、現行の法体制では俺が議員となることは難しい。帝国は議会があって無いのと同然だからな。今よりもっと議会の力を強めないと……。だからルディの復帰を期待していたというのもあるんだが……」
「それは……、副宰相のオスヴァルトや連合国軍がきっと……」
   扉が叩かれ、ミクラス夫人が姿を現した。ご歓談中失礼します――と言ってから、ミクラス夫人はトーレス医師が往診に来たことを告げる。アランは長々と済まないと言って立ち上がった。
「何よりもまずは早く身体を治すことだ。また来させてもらう」
「ああ。今日はありがとう」

   ミクラス夫人がアランを見送りに出る。トーレス医師はいつも通り具合を尋ねてから、脈を診、空になりかけた点滴を取り替える。それを終えてから、横になるよう告げ、私の背にあったクッションをそっと引き抜いた。これから、感染症を防ぐための薬を投与するという。どうやら私の身体はまだ薬が手放せないようだった。
「投与を終えたら少しお休み下さい」
   身体から伸びた管にトーレス医師が薬を投与しようとした時、不意に棚の上に置いてあった携帯電話が鳴った。トーレス医師は動きを止めて、側にあったそれを取ってくれた。礼を述べて受け取る。画面を見ると、ロイからだった。
「済まない。少し待って貰えるか?」
   トーレス医師は快く頷いてくれる。通話ボタンを押すと、ロイがすぐにルディ――と呼び掛けた。何かあったのか――と問い掛けるよりも先に。

「ヴァロワ卿の意識が戻ったと、病院から連絡があったんだ。これから病院に行って来る」

   ロイはそう言った。


[2010.5.9]