ルディの退院の日が来週に決まったが、一方で、ヴァロワ卿はまだ意識の無い状態が続いていた。
ルディの病室のひとつ上の階に、ヴァロワ卿の病室がある。ルディの病室と共に、此方にも足繁く通っているが、ヴァロワ卿が意識を取り戻す様子は無い。
銃弾に倒れてから二週間が経つ。
昨日のことだった。担当医が、回復の見込みは薄い――と言ったのは。
今は生命維持装置に頼って命を繋ぎ止めている状態だった。
『回復の見込みが無く、この植物状態が続くと考えられます。……どうなさいますか?』
医師がそう尋ねた。その言葉の意味することに、すぐには回答出来なかった。
軍では入隊時に、任務遂行時に負傷し植物状態となった際の延命処置について書類を提出することになる。ヴァロワ卿はその書類に、延命を希望しない――つまり生命維持装置を外すという選択をしている。
ヴァロワ卿の意に沿えば、この装置を取り外すことになる。
だが――。
「失礼します」
コンコンと扉をノックする音が聞こえたと思ったら、ミクラス夫人が入室した。やはり此方でしたか――と言って俺を見、それからヴァロワ卿を見遣る。
「トーレス医師からかなり難しい御容態だと伺いました」
「ああ……。早く意識が戻ってほしいが……」
「フェルディナント様にヴァロワ様のことを聞かれました。どうも……、何か勘付いていらっしゃる御様子で……」
「解ってる。ルディに隠したところで察せられるだけだ。……もう大分回復したから、きちんと話すよ」
これまでルディには黙っていた。ショックを受けて具合を悪くしてはならない――と考えてのことだった。
だがもう黙っておくにも限界がある。
ルディに伝言を頼まれた。それなのにヴァロワ卿から何の音沙汰も無いとなると、ヴァロワ卿の律儀な性格を知っていれば、疑問を抱くのも当然だった。
「……今、ルディは?」
「本を読んでらっしゃいます」
「……ルディは顔色も良くなったな。食事もきちんと摂っているのだろう?」
「ええ。ただ、まだ歩行は無理だとトーレス医師に言われました。当分は車椅子の生活になるようですが、もう暫く様子を見て、経過次第では来月から歩行訓練をと……」
「歩行か……」
「ハインリヒ様?」
「……ヴァロワ卿、大腿部を撃たれて、神経を断絶しているんだ。担当医に聞いたら、手術を行ったとしても、まったく元通りという訳にはいかないだろうと言われていて……」
右足の感覚が戻ったとしても、歩くときに少し引きずるような傷害が残るだろう――と医師は言っていた。
ヴァロワ卿はもう軍には戻れないかもしれない。
「ハインリヒ様……」
「兎も角、意識を取り戻す方が先だがな。……さて、ルディの所に寄ってから帰ろう」
ミクラス夫人を促して病室を出る。いつもこの瞬間、後ろ髪を引かれる思いがする。ヴァロワ卿がこんなことになったのは俺のせいなのに、俺はただ一人無傷で――。
そんな思いを振り切るように、ヴァロワ卿を一度見、それから病室の扉を閉める。
ミクラス夫人と俺がルディの病室に行った時、ルディは本を開いたまま眠っていた。回復しつつあるとはいえ、何時間も起き続けていることはまだ身体に負担がかかるようで、面会時間の終わる頃には、ルディは大抵眠ってしまう。
ルディの手からそっと本を取り、その開かれたページに栞を挟み、ベッド脇の棚に置く。ミクラス夫人はルディの手をルディの手をブランケットのなかに収め、ブランケットを引き上げた。
明日は休日で、ルディと語り合う時間はたっぷりとある。
明日にはルディにヴァロワ卿のことを話さなければ――。
それを心に決めて、ルディの病室を後にした。
『回復の見込みが無く、この植物状態が続くと考えられます。……どうなさいますか?』
机の上に、ヴァロワ卿の記した書類がある。昨日、軍からこの書類を持って来た。
延命措置を望まない――この欄にチェックが入り、ヴァロワ卿の署名が施されている。もう何度この書類を確認しただろうか。
無理――なのだろうか。
希望を持つことは出来ないのか。
俺は、生きていてほしいと思っている。ヴァロワ卿がそんな状態にあることを、今でも心のなかでは信じていない。明日にでも眼を覚ますような――そんな気がして。
生きていてほしい。
どんな状態であっても――。
だがそれは、ヴァロワ卿の個人の尊厳を踏み躙ることだろうか――?
翌日は昼を過ぎてから、ルディの病室を訪ねた。ルディはちょうど診察を終えたところだった。ベッドに備え付けられたボタンを押し、ベッドの背を少し起こし上げて、俺と目線を合わせてくれる。
「具合、良さそうだな」
俺がそう声をかけると、ルディは頷いてトーレス医師からも経過は良好だと言われた――と嬉しそうに応えた。
「週明けに検査を受けて異常が無ければ、来週の木曜日に退院出来る」
「退院しても当分はベッドで大人しくしていろよ?ルディ」
「ああ、解っている。まったく皆に同じことを言われる。この前、オスヴァルトが来た時にもそんなことを言われた」
ルディは苦笑しながらそう言った。
ヴァロワ卿のことをいつ切り出そうか。話しづらくて、ルディと他愛の無い会話を交わしながらもずっと躊躇していた。
「ロイ」
「何だ?」
ルディが俺を呼び掛ける。ルディは真っ直ぐ俺を見つめた。
「……何だ?」
もう一度尋ねる。来るべき時が来たのかもしれない。きっとルディは――。
「包み隠さず教えてくれないか? ……ヴァロワ卿はどうかしたのか?」
この瞬間、全てルディに気付かれていたのだと解った。必死に隠し通してきたつもりだったのに、俺はやはりルディに隠し事は出来なかった。
「……黙っていたことは謝る。落ち着いて……、聞いてくれるか……?」
そう告げると、ルディは真剣な眼差しでああ、と応えた。
「皇帝を逮捕する際、フォン・シェリング大将と銃撃戦となって、ヴァロワ卿が負傷した。今、意識不明の状態でこの上の階に入院している……」
「意識不明……? そんな……」
「……俺の過失なんだ、ルディ。俺が周囲を確認せず、逃げ行く皇帝の後を追ってしまって……、フォン・シェリング大将が俺に銃口を向けていたことに気付かなかった。ヴァロワ卿は俺を庇い右胸に銃弾を受けた。そして俺は、ヴァロワ卿に促されるままに皇帝を追った。その後、ヴァロワ卿はフォン・シェリング大将と銃撃戦となって……。その際に腹部と足に銃撃を受けて……」
ルディは視線を落とした。黙っていて済まない――と告げると、ルディは深く息を吸い込んでから、俺を見た。
「肝心な時に何も役に立てず済まなかった……」
「ルディ……? 何故、お前が謝る? どう見ても俺の過失だ。俺がきちんと確認していれば……」
「自分を責めるな、ロイ。……私をヴァロワ卿の許に連れて行ってくれるか?」
「ルディ……」
この日初めて、ルディは病室を出た。トーレス医師は病室を出歩くことにあまり良い顔をしなかったが、ルディは強くそれを求めた。ルディを車椅子に座らせて、ゆっくりと廊下を歩き、エレベーターへと向かう。ヴァロワ卿の病室の前までやって来て、扉を叩くと、それに応答する声が聞こえて来た。カサル大佐かと思ったが、そうではなかった。