心電図がルディの心音を規則的に奏でる。当分の間は感染症を防ぐために、ルディは一室に隔離されていた。外部からの接触は極力遮断するということで、ルディの側に行くことは出来ないが、ガラス一枚隔てた此処からも、ルディの心音は聞き取れる。

   手術は無事、成功した。
   尤も、手術が終わるまでの間は気が気では無かった。手術時間は8時間の予定だったが、実際には10時間を要した。麻酔をかけた直後にルディの心臓が停止したことが原因だった。それにはひやりとさせられた。
「容態は安定しているそうです」
   隣に立っていたミクラス夫人が、俺を見上げて言う。
   手術が終了した直後のトーレス医師の呼びかけには反応したようだが、それ以後、ルディはまだ眼を覚ましていない。フェイから緊急の呼び出しがあって、一旦本部に戻らざるを得なかったが、ミクラス夫人はルディにずっと付き添ってくれていた。
「今日は休暇をもらったから、俺が此処に居る。ミクラス夫人はすこし休んでくれ。ここ数日、殆ど休んでいないだろう」
   ミクラス夫人はお気遣いありがとうございます、と微笑んでから言った。
「でも私のことならご心配なさらず。せめてフェルディナント様が意識を取り戻されるまでは、お側に居させてください。私のことより、ハインリヒ様こそお休み下さい。きちんとお休みになってらっしゃらないでしょう」
「ありがとう。ミクラス夫人。俺は大丈夫だ」
   その時、トーレス医師がルディの病室に入っていった。側に居た看護師に指示を出し、それからルディの手首に触れる。フェルディナント様――とトーレス医師が呼び掛けた。
   ルディの眼がゆっくりと開かれる。
「ハインリヒ様……」
「ああ。意識が戻ったようだ」
   ルディはトーレス医師の質問に頷いて答えた。何か話しているようだが、ルディの声までは聞き取れない。トーレス医師は俺達の方に手を向けた。ルディの頭が少し動いて此方を見る。
   ルディは笑みを浮かべて見せた。



   ルディの容態が悪化して、手術に踏み切ることが出来るかどうか解らないとトーレス医師に告げられた時には、絶望を感じた。だが、ルディは何とか持ちこたえた。連日、殆ど意識の無い状態が続いていたが、その間に培養中の心臓と肺はルディの身体に移植出来る状態となった。
   ルディの容態から大手術に耐えられるかどうかという不安はあったが、これ以上はルディの身体が保たないということで、予定通りの日に手術に踏み切ることになった。
   ルディは今、回復の一途を辿っている。

   だが一方で――。
   ヴァロワ卿は意識不明のままだった。一度カサル大佐に連絡をいれたが、容態には何も変化が無いとのことだった。


「ハインリヒ様。ヴァロワ様はまだ意識が……?」
   ルディの意識が戻ったことに安心し、病院から一旦屋敷に戻った。上着を脱いでいたところへ、フリッツが尋ねて来た。
「ああ……。ルディのことは一安心したから、一度本部に行ってから、ヴァロワ卿の許に行く。意識が戻り次第、ナポリから帝都第七病院へと移送してもらうから、手配を頼む。ああ、トーレス医師には事情を話してある」
「今日は此方でお休みになるのではないのですか?」
「いや、着替えたら本部に行ってそのままナポリに向かう。慌ただしくて済まない」
「ハインリヒ様もお疲れの御様子。どうか少しは御休息を……」
「ありがとう。大丈夫だ」
   着替えを済ませて本部に行くと、フェイはいつも通り、執務を行っていた。俺が入室するなり、ヴァロワ卿のことを聞かれた。
「意識不明のままだ。……医師からはこのまま植物状態になるかもしれないと言われた」
「何と言うことだ……。ご家族には報せたのか?」
「いや……。ヴァロワ卿は独身で、今は親族も居ない」
   ナポリの病院でも家族に連絡するように真っ先に告げられた。親族が居ない旨を告げると、医師は少し悩むような表情を浮かべた。
「では……、万一の事態が生じたら……」
「俺が世話をする。ヴァロワ卿は兄のような存在だからな……」
「帝都とナポリを往復することも大変だろう。……ヴァロワ大将を此方に転院させることは?」
「そうしたいが、今の状態では長時間の移動は危険だと医師に言われた。意識が戻り次第、搬送しようと準備を進めているが……」
   トーレス医師にも何か良い手立ては無いかと相談していた。トーレス医師もヴァロワ卿の容態での長時間の移動は難しいと言っていた。移動は体力を消耗させる。片道一時間ならまだしも五時間は厳しい――と誰もが言った。

「……長時間でなければ良いのか?」
   フェイが何か思いついたように机の一点を見つめて尋ねる。
「……ナポリから帝都までは片道五時間、おそらくあの状態のヴァロワ大将を搬送するとなるとそれ以上の時間がかかる。搬送は無理だ」
「車で片道五時間……。それぐらいの距離ならば、航空機なら一時間で到着出来る」
「しかし国際法に……」
   航空機の民間使用は認められていない。国際法では国家に一機か二機の航空機の所有が認められているが、それは公用での使用に限られている。フェイの言う通り、航空機なら帝都まで一時間しかかからないが、現実的には無理なことだった。
「政府要人の人命に関わるとなれば、例外条項が適用出来る。それにナポリのその病院では、充分な警備も配置出来ないだろう。無防備なヴァロワ大将の命を狙う輩も居るからな」
「フェイ……」
「ヴァロワ大将はこのたびの戦争でも平和解決に向けて尽力して下さった方だ。我が国もそれなりの対応をさせてもらう。今、帝都に待機させている連邦の専用機の使用許可を長官から得るから待っていろ」
   フェイはすぐに電話の番号を押した。シヅキ長官に手短に状況を説明し、その後すぐに許可が下りた。
「ロイ。病院の手配はすぐ出来るか?」
「ルディの居る第七病院に話をつけてある。……この本部から車で三十分だ」
「では今のナポリの病院と第七病院に、直ちに搬送作業に移る旨を伝えろ。第七病院なら宰相が居るから警備を強化してあるだろう。その方が警備上も都合が良い」
   そうして、すぐさまナポリ市病院と第七病院に話を伝えて、ヴァロワ卿を移送してもらうこととなった。


   その日のうちに俺はナポリに戻り、翌日の朝、ヴァロワ卿を搬送することとなった。ヴァロワ卿とその担当医、それにカサル大佐と共に、連邦の専用機で帝都にある本部へ行き、既に其処で待機していた救急車で第七病院へと向かった。
   ヴァロワ卿は移動中に少し心拍の乱れがあったものの、それはたった一度きりのことで、すぐに回復した。
   今は第七病院の病室で診察を受けている。

   ルディにはまだヴァロワ卿のことは伝えていなかった。ルディ自身も回復しつつあるとはいえ、まだ起き上がれるような状態ではないから、心配をかけたくなかった。
   ヴァロワ卿の病室はルディの病室のひとつ上の階にある。そして帝都に戻ってくると、ヘルダーリン卿やウールマン大将も、ヴァロワ卿を見舞いに来た。



「ルディ。具合はどうだ?」
   俺はこの日、ルディの病室に行った。ルディの容態は安定していて、俺と面会出来るようになっていた。


[2010.5.3]