これで、終わった――。
   安堵感と共に胸にぐっと悲しさが押し寄せてくる。それを堪えるために、拳を握り締めた。まだ事後処理が残っている。ヴァロワ卿と相談して――。

   そうだ、ヴァロワ卿――。
   俺を庇って右胸を負傷していた。早く手当を――。

   ヴァロワ卿は何処に――。
   振り返り、ヴァロワ卿の姿を探す。
   ヴァロワ卿は座り込んでいた。昨晩から皇帝を追っていたというのだから、疲れ果ててしまったのだろう。
「ヴァロワ……」
   呼び掛けた時、ヴァロワ卿の身体が前のめりに倒れていった。

「閣下!」
   カサル大佐がヴァロワ卿の許に駆けつける。
   一体、何が起こったのか解らなかった。カサル大佐が俯せに倒れたヴァロワ卿の身体を、仰向けにする。

   まさか――。
   まさか……!

「ヴァロワ卿!」
   深手だったとは思わなかった。ヴァロワ卿はあの後もフォン・シェリング大将と応戦していたから――。

   そうだ――。
   あの時の銃声。
   まさか――、あの時の銃声は――。
   ヴァロワ卿が撃たれた音だったのか……?
   あの時の銃声は、ヴァロワ卿がフォン・シェリング大将に放ったものだと思っていた。否、フォン・シェリング大将の身体はヴァロワ卿から少し離れたところにある。倒れていて、今、布がかけられた。死んだということだ。


   しかし、カサル大佐の足下に倒れているのは紛れもなくヴァロワ卿で――。
   右胸と、腹部、そして大腿部を撃ち抜かれていた。
「ヴァロワ卿……!」
   その唇からは血が流れ出していた。
   ヴァロワ卿――と、何度か呼び掛けると、ヴァロワ卿の眼がゆっくり開く。そして唇が少し動いた。
「喋らないで下さい。すぐに病院に連れて行きます」
   カサル大佐は既に救急車を呼んだことを告げた。上着を脱いで、袖を切り、ヴァロワ卿の腹部と右胸を押さえる。それでも血がどくどくと溢れ出す。
「ハインリ……ヒ……」
「喋っては駄目だ! 血が……!」
   ヴァロワ卿の口から血が溢れ出す。肺を傷付けたに違いない。早く救急車が到着しないか。早く手当をしなければ――。
   ヴァロワ卿の手が伸びてくる。すぐに救急車が来るから――と、その手を握り締めて伝える。
   ヴァロワ卿は笑みを浮かべた。
「……頑張れ……よ……」
「ヴァロワ卿……?」
   上下していた胸が、その動きを止める。眼が、虚ろになり――。
   駄目だ……。駄目だ……!
「ヴァロワ卿、ヴァロワ卿!!」



   救急車が到着したのはその直後のことで、ヴァロワ卿に蘇生の処置が施された。出血が夥しく、意識が無い。危険な状態であることは一目瞭然だった。
   ヴァロワ卿はナポリ市病院に搬送された。カサル大佐と共に病院に駆けつけ、ただただ無事を祈った。
   ヴァロワ卿はフォン・シェリング大将とその息子のフォン・シェリング少将を一人で倒した。二人とも絶命しており、激しい銃撃戦の跡が窺えた。
   ヴァロワ卿の射撃の腕は俺もよく知っている。射撃場で何度か競い合ったこともある。正確な射撃だった。

   だから――。
   ヴァロワ卿が万全の状態で臨んでいれば、銃弾に倒れることは無かった。
   俺を――、俺を庇ったから――。
   皇帝を追うことに夢中で、確認を怠った。フォン・シェリング大将の銃口が此方に向いているとは考えなかった。
   ヴァロワ卿はその俺を庇い――。
   利き腕のある右胸を負傷した状態で、フォン・シェリング大将と応戦した。

   病院の待合室で、処置が終わるのを待った。眼の前を看護師が何度も往復していた。一時間が経過した頃、医師が俺達の前にやって来て、ヴァロワ卿の容態を説明した。出血多量のため、予断を許さない状態だと言う。右胸に受けた銃弾は肺を、腹部は肝臓を貫通しており、これから緊急手術を行う必要があると言った。
   そればかりか――、右大腿部に受けた銃弾は神経を断絶しており、回復したとしても右足には麻痺が残るだろうと告げた。
「兎に角今はかなり厳しい状態です。最悪の事態も覚悟なさって下さい」
「手を尽くしてほしい……。帝国にとって大切な方だ」
   医師は最善を尽くします、と返事をしてから、治療室へ戻っていく。カサル大佐は俺に椅子に座るよう促した。
「ありがとう……」
「閣下。ヴァロワ大将閣下は心身共にお強い方です。必ず回復なさいます」
   大丈夫ですよ――とカサル大佐は気遣わしげに告げた。
「……私がきちんと確認していれば、ヴァロワ卿は撃たれずに済んだ……。私を庇って一発目の銃弾を……」
「そのように御自身をお責めにならないで下さい。ヴァロワ大将閣下がそれを望んでそうなさったことですから」
   その時、胸の内の携帯電話が鳴った。それを取り出して画面を見ると、フリッツからの電話だった。
   ルディに何かあったのか――。
ひやりとした。震える手で、通話ボタンを押した。
「ハインリヒ様。任務中に申し訳御座いません。フェルディナント様が先程少し眼を覚まされたので、御連絡をと思い……」
   ルディの意識が戻った――。
   良かった――。
   安堵のあまり、すぐには声が出せなかった。
「そうか……。私はまだ其方には戻れそうにない。……ヴァロワ卿が……」
   フリッツに一連のことを伝えると、今度はフリッツが言葉を失った。

   ヴァロワ卿の緊急手術は何とか終わったが、意識は戻らなかった。ヴァロワ卿は集中治療室に運ばれた。人工呼吸器と心電図が規則的に動いていたが、呼び掛けても返事が無いままだった。
   医師は容態を説明した。傷は全て塞いだが、臓器や動脈を撃ち抜かれたことで多量に出血し、出血性ショックを引き起こしてしまった――と。
「このまま意識が戻らず植物状態となる可能性もあります」
   医師がそう告げた時、カサル大佐は息を飲んだ。俺は眼の前が真っ暗になったかのようだった。
「ヴァロワ卿……」
   手にそっと触れる。酷く冷たくて、それを暖めるように握った。
   どうか意識を取り戻してほしい――。
   懸命にそれを願った。
   だがこの日、ヴァロワ卿の意識が戻ることは無かった。

「大将閣下。ヴァロワ大将閣下のことは私にお任せ下さい。宰相閣下の御容態もお気にかかるでしょうから、閣下は一旦、帝都にお戻り下さい」
「兄ならば意識は戻ったから大丈夫だ。明後日の手術当日には帝都に戻らせてもらうが、それまでは私もヴァロワ卿に付き添っていたい」
   ルディの手術も近付いていた。しかし、ヴァロワ卿の容態に好転が見られない。意識さえ戻れば帝都の病院に移送することも出来るが、今の状態では動かせない。

   結局、ヴァロワ卿は三日経っても意識を取り戻さなかった。
   カサル大佐にこの場を任せて、一度帝都へと戻ることにした。ルディの手術に立ち会い、それからまたナポリに戻ってこようと思った。
   ヴァロワ卿が意識不明の状態にある一方で、ルディは意識を取り戻していた。フリッツから一日に一度は連絡が来て、ルディの容態を報せてくれていた。それによれば、一日の大半を眠っているが、時折眼を覚まして応答するとのことだった。


[2010.5.1]