引き金に込めた力を緩める。ヴァロワ卿はそっと手を放した。
「帝国宰相としての責務を放棄したのはフェルディナント自身だ。あの愚か者が共和国の思想に毒されなければ、私は宰相を解任させはしなかった」
「兄は……、私によく言っていた。国土防衛のためではなく、他国侵略のための戦争を行えば、帝国は必ず滅ぶ――と。兄は最後まで貴方に眼を覚ましてもらいたくて尽力した。帝国は資源の乏しい国だ。長期戦には耐えられない。……そして、帝国が侵略をすれば他国がこぞって非難する。道義的な意味もあれば、帝国という巨大な国家を消滅させる好機となるからだ。兄も貴方にそう言った筈だ……!」
   ルディはよく言っていた。これから先は他国との強調が今にもまして必要になってくる――と。そのために、帝国自体がもっと開かれなければならない――と。

『皇帝と皇帝に近しい旧領主層が実権を握っているような国では、もう10年も持つまい。国民も政治に参加するような体制を整えなければ、帝国はいつか滅ぶ』
『……ルディ。危険思想だと非難されるぞ』
『そういう考え方はもう古いんだ、ロイ。……帝国の体制がこの状態を維持しようとするなら、国際会議も黙ってはいまい。国際会議に出席すると、あちらこちらから苦言が漏れ聞こえてくる』
『だが、体制を変えるといっても皇帝も旧領主層も黙ってはいないだろう』
『急激な変化には多数の犠牲が出る。漸次的な変化であれば、たとえ犠牲が出たとしても少ない筈だ。ロイ、帝国はもっと開かれた社会とならなければならない。国民に情報を開示し、議会に力を持たせて、国民の選挙と議会の力で法案を作ることが出来るような――。そうしなければ、帝国は滅ぶ』

   ルディとそんな会話をはじめて交わしたのは、ルディが宰相となって一年目のことだった。その頃からルディは常々言っていた。皇帝をも説得していた。いつだったか、酷く疲れた顔をしてソファで眼を閉じていた。どうかしたのかと問い掛けると、ルディは苦笑して、なかなか思い通りにはならないものだ――と言っていた。
   ルディはいつでも身を削って努力してきた。


「ヴァロワ大将閣下!」
   背後から声が聞こえてくる。振り返ると、カサル大佐はじめトニトゥルス隊の隊員達が此方に駆け寄ってくるのが見えた。彼等が漸く到着したのだろう。
   フォン・シェリング大将が皇帝を促し、この場から立ち去ろうとする。その後を追うように将官達が動き始めたのを、拳銃で制す。クライビッヒ中将、フォン・ビューロー中将達が両手を挙げ、降参する。
   残るは皇帝とフォン・シェリング大将、その息子のフォン・シェリング少将だった。その三人の後を追って駆け出すと、ヴァロワ卿が待て、と呼び掛ける。ちらと振り返ると、ヴァロワ卿はトニトゥルス隊のカサル大佐に向けて、此処に居る将官達を捕縛するよう告げているところだった。
   急がなければ――。
   皇帝達を見失う訳にはいかない。ヴァロワ卿には悪いが、角を曲がった三人の後をすぐに追った。

   銃弾が飛んでくる。それを避けて、すぐに銃を構える。そして俺の隣に人の気配がしたと思ったらヴァロワ卿が拳銃を構えていた。
   前方斜め前に向かって二発を放つ。フォン・シェリング少将の肩と足に当たり、彼はその場に蹲った。

「ハインリヒ。皇帝を必ず生かして捕らえるんだ。良いな?」
「ヴァロワ卿……」
「私はフォン・シェリング大将を捕らえる。行くぞ!」

   皇帝が船に向かって走り出した時、ヴァロワ卿が促した。ヴァロワ卿が一発の銃弾を撃つ。フォン・シェリング大将の足下を掠め、フォン・シェリング大将は振り返って応戦の体勢を取る。
   皇帝はフォン・シェリング大将に構わず、碇泊している船に向けて走っていく。

   逃がしてはならない。これ以上――。
   もう終わらせなければ――。
   追いつけるか――? 大丈夫だ、行ける。捕まえられる。
   この距離なら追いつける。全速力で走れば――。

「ハインリヒ!伏せろ!」

   え――?
   ヴァロワ卿の声に従うより先に振り返った途端、ヴァロワ卿の腕が俺を突き飛ばした。

   ズドン――。
   鈍い音が間近で聞こえた。

   今の音、まさか――。

「ヴァロワ……」
   ヴァロワ卿は三発の銃弾を撃ち放つ。二発がフォン・シェリング大将の肩と腕に当たった。
「早く追いかけろ!」
   ヴァロワ卿は右胸を押さえながら言った。其処からは血が溢れ出していた。
「ヴァロワ卿、怪我を……」
「構わん、行け! 早く! この機を逃すな!」
   皇帝は船まであと少しというところだった。拳銃を構え、彼の足下を狙う。二発の銃声に皇帝は怯んで一歩下がり、此方を振り返った。その隙に皇帝の許に走っていく。

   拳銃で威嚇しながら走り、何とか皇帝の腕を掴む。皇帝は手にしていた拳銃を此方に向けようとした。引き金に指がかかる前に、それを蹴り上げる。
「貴様……っ!」
「陛下! 見苦しい真似はお止め下さい!」
   刹那――。
   背後から、五発の銃声が聞こえた。

   ヴァロワ卿か――。
   ヴァロワ卿がフォン・シェリング大将を仕留めたのだろう。残るは眼の前の皇帝だけだ――。
「ハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン! その手を放さぬか!」
「放しません……! 貴方に罪を認めてもらうまでは……!」
   皇帝はぎろりと此方を見、必死に手を振り解こうとした。此処までの事態になってもまだ逃げようとするのか。
   この男は本当に俺が知っている皇帝なのだろうか。玉座に堂々と腰を下ろし、至高の存在として権力を揮っていたあの皇帝なのだろうか――。
   つい手が放れ、その隙に皇帝は拳銃を拾い上げる。
   そしてその銃口をこめかみに当てた。
   咄嗟に、拳銃を撃ち飛ばす。手を負傷したようで、もう片方の手で押さえながら俺を睨み付けた。
「ハインリヒ……!」
「罪をお認め下さい……! 陛下、私は貴方を無能な人間だとは思っていない。兄も……、貴方のことを評価していたんだ……」
   左手で皇帝の腕をもう一度掴む。尚も逃げようとしてか手を振り解こうとしたが、それが無理だと悟ってか、皇帝の力が緩んだ。
「閣下!」
   トニトゥルス隊の隊員が駆け寄って来る。彼等に皇帝の身柄を預けた。皇帝には手錠がかけられ、両脇を隊員に抱えられながら連行された。


[2010.5.1]