宮殿から屋敷までは車で十分とかからない。ケスラーが玄関の前に車を横付けしてくれた。すぐさま車から降り、玄関の扉を開ける。ルディの部屋から出て来たフリッツが駆け寄って来る。
「ハインリヒ様……! お早く……!」
   ルディが昏睡状態にある――と、フリッツが言った。ルディの容態が急変した時には、すぐに連絡をするようにフリッツに伝えてあった。そのフリッツが血相を変えて、俺を率いて階段を上がっていく。
   ルディの部屋の扉を大きく開く。部屋に入って見えたのは、ミクラス夫人とパトリック、それにトーレス医師と看護師の姿だった。彼等がルディのベッドを取り囲んでいた。
   ルディの側に歩み寄る。
   ルディは口に太い管を挿し込まれていた。その傍らでトーレス医師が、ルディの心臓から伸びている細い管に薬を投与していた。注射器の中身が全てルディの身体の中に入ると、トーレス医師は心電図を凝と見つめる。それから俺の方を見た。
   深刻な表情をしていた。近くに居たミクラス夫人は蒼白い顔で此方を見た。


   ルディの身体には、何度も強心剤が投与された。
   ピッピッピッと間隔を開けながら鳴る心電図の音が、徐々にその間隔を広げていく。トーレス医師が再び薬を投与する。暫くするとまた間隔を狭めて、その音が鳴り響く。
   必ず目覚める――。
   その筈だ。ルディは手術後のことを、あれだけ確りと見据えていたのだから。
   今、諦める筈が無い。
   約束したのだ。一緒に連邦と共和国を巡ると。
   あの時のルディは嬉しそうな表情をしていた。だから――、絶対にルディは目覚める。数時間後には必ずまた――。


   ルディの鼓動がまた弱々しくなる。つい先程、投薬したばかりだった。トーレス医師は看護師から注射器を受け取り、薬をルディの身体の中に流し込む。
   何度目の投薬か――、もう解らないほど、同じことが繰り返されていた。
   ルディはぴくりとも動かない。


   何時間もその状態が続いた。ミクラス夫人や俺が呼び掛けても、ルディは意識を取り戻さない。
   ルディ――。
   祈るように、ルディの側に付き添った。トーレス医師は意識が戻らない限りは、手術は出来ないと言った。どうにかならないか――と何度も彼に問い詰めた。だがこれ以上、手の尽くしようが無かった。
「ハインリヒ様。少しお休み下さい。フェルディナント様は私が見ていますから……」
   ミクラス夫人に促された時、首を横に振った。せめてこんな時はルディの側に付き添ってやりたかった。俺はずっとルディを苦しめてきたから――。
「ハインリヒ様……」
「……ルディが憲兵に捕らえられたということを、俺は早い段階で知っていたんだ……。新トルコ共和国のアンドリオティス長官から聞いていたから……。刑務所に収監されたらルディの身体が保たないことも気付いていた……。だが俺は詰まらない意地を張り続けて、帝国に戻れなかった……」
「ハインリヒ様……」
「マリと一緒になれないと解っていても……、辛かった……。ルディを恨むことしか出来なかった……。莫迦だよな……。俺がもっと早く戻っていれば、ルディはこんなに苦しむことも無かったのに……」
「……そのように御自身を責められては、フェルディナント様も傷付いてしまいますよ」
   ミクラス夫人は俺の肩に手を添えて言った。
「マリ様のことはフェルディナント様にも非のあること。ですが、フェルディナント様はずっと後悔なさっていました……。いつかハインリヒ様に再会したら謝りたいと……。ハインリヒ様、フェルディナント様はもう謝られたのでしょう?」
「ああ。だがルディより俺の方が悪かったんだ。ルディは皇帝と俺の間に挟まれて……」
「でしたらもう、全てを水に流して差し上げて下さい。フェルディナント様の非も、ハインリヒ様の非も」
「ミクラス夫人……」
「また元のように、仲の良いご兄弟にお戻り下さい。フェルディナント様は必ず快復なさいますから……」
   ミクラス夫人はルディをそっと見遣る。ルディは昏々と眠り続けていた。



   突然、携帯電話が鳴った。
   胸元からそれを取り出した。フェイかと思った。
   だが、画面に表示されたのはヴァロワ卿の名前だった。通話ボタンを押すと、ハインリヒ、と声が聞こえてくる。
「ヴァロワ卿……」
「今から言う場所にすぐに来い」
   ヴァロワ卿は何か急いでいるかのようにそう言った。帝都から東南に行ったナポリの町にある貿易会社の倉庫に来るよう告げる。
「出来るだけ早く来い。皇帝は其処から海に出て逃亡するつもりだ。詳細は後で話す」
   それだけ伝えると、ヴァロワ卿は一方的に通話を切った。声を潜めていた様子だったから、皇帝のすぐ近くで俺に連絡したのかもしれない。
「ヴァロワ様ですか?」
「ああ……。すぐにナポリに来るようにと……」
   ミクラス夫人は困ったような顔をした。ルディがこのような状態だから、側を離れるのは確かに気が咎める。俺とて、今はルディの側に付き添ってやりたい。
   だが――。
   皇帝を捕らえる――この帝国の状態を安定させる機会ではある。
「……ナポリに行って来る。ミクラス夫人、ルディを頼む」
   ミクラス夫人は此方を見つめて解りました、と静かに一礼する。ルディのことを考えれば気が咎めるが、仕方が無い。ルディも解ってくれる筈だ。
「……ルディ。済まない。行ってくる。……そして必ず終わらせてくるから……」
   ルディの手に触れてそう告げる。きっとルディは解ってくれる。俺の背を後押ししてくれる。


[2010.5.1]