一昨日の容態急変から一転して、昨日のルディの具合は頗る良かった。起きている間は俺やミクラス夫人と会話を交わしていた。顔色も良かった。往診に来たトーレス医師は、ルディの容態が安定していることを確認してから、四日後に迫った手術の説明を行った。ミクラス夫人やフリッツも同席し、ルディは説明を聞いた後で、いくつか質問をした。
   快復後は以前のように動くことが出来るのか、快復にはどれぐらい時間がかかるのか――と。

   ルディは既に手術後のことを見据えていた。ルディの体力を考慮すれば、完全な快復までには一年程かかるが、以前のように、もしかしたらそれ以上の運動が可能となるかもしれないと、トーレス医師は応えた。その回答にルディは満足した様子だった。
   今朝、出掛ける前にルディの部屋を覗いたところ、ルディは眼を覚ましていた。出掛けて来ると告げると、ルディは行っておいでと見送りの言葉をかけてくれた。

「心臓と肺の移植手術となると大掛かりだな」
   連邦の臨時作戦本部に出勤すると、フェイがルディのことを尋ねて来た。容態が安定したことと、予定通り手術を行うことになったことを告げると、フェイは顎に手を添えて言った。
「まあな。心配が無いという訳ではないが、今の兄を見ていると乗り越えてくれるように思える」
「私の伯父も肝臓移植を受けましたが、術後もけろりとしていましたよ。ロートリンゲン大将の兄君と同じように自分の細胞を培養しての移植でしたが、拒絶反応が無い分、身体への負担が軽いと言っていました。本人曰く、寝ている間に身体がすり替わったようだと」
   ワン大佐が大丈夫ですよ――と言いながら、そう教えてくれた。自己細胞培養での移植手術は成功率も高いと聞いている――と横合いからフェイが言う。
「宰相はまだ屋敷に居るのだろう? 当日に入院するのか?」
「いや、手術前日の明後日に入院させる。術後も当分は病院だ」
「一応、第七病院の警備を強化しておいた方が良いだろう。手配をしようか? 最近は暴動も無いから大丈夫だとは思うが……」
「ありがとう。だが、ヴァロワ卿が既に警備を強化してくれたから大丈夫だ」
「そうか。ならば安心だ」

   フェイから書類を受け取り、席に戻って眼を通していく。来月には講和条約の締結を行うことになっていた。帝国は旧体制のままで締結に臨むことになっており、条約後に議員選挙を行って、新たな議会の許、各省が一新されることとなった。
   今は物事が活き活きと動いているようだった。マスコミは連日、選挙と議会について報道し、それによって国民の政治への関心は高まっていく。これまでの閉鎖的な風潮は一瞬にして消え失せてしまったかのようだった。


   不意に、この部屋の扉がノックされる。ワン大佐が入室を促すと、ヘルダーリン卿が姿を現した。フェイに何か用があるのか――と思ったら、フェイに目礼し、すぐに此方を見遣る。
「ロートリンゲン大将。少々、お時間を頂けますか」
   その様子から察して、どうやらこの場では話し難いことのようで、フェイに許可をもらってから部屋を退室した。
   ヘルダーリン卿に促されて廊下の奥の影に行く。ヘルダーリン卿が声を潜めて言った。
「ヴァロワ卿から何か連絡はありましたか?」
「ヴァロワ卿から……? いや、今日は何もありませんが……。どうかしたのですか?」
   実は、とヘルダーリン卿はさらに声を潜め、耳許で、行方が知れず、連絡も取れないのです――と言った。
「え……?ヴァロワ卿が……?」

   ヴァロワ卿は律儀な人間だから、出掛ける時は必ず居場所を明らかにする。おまけにこの事態だから、何かあれば必ず連絡を寄越す筈だ。つまり、連絡出来ない状況が生じたということか――。

「今日の早朝、カサル大佐の許に皇帝の所在が掴めた、とメールが入ったそうです。カサル大佐がそれに気付いたのが起床してからで、ヴァロワ卿にすぐ返信をした後で、私の許にも連絡をいれてくれたのですが、ヴァロワ卿から音信が無く……。ロートリンゲン大将なら何か御存知かと思ったのですが……」
「いいえ……。私は何も聞いていません。皇帝の所在を見つけたというメールのなかに、その場所については何も書かれていなかったのですか?」
「ええ。後で連絡をいれるとは書いてあったようですが……。ロートリンゲン大将、ヴァロワ卿はおそらく単独で動いています。そのことが気にかかりまして……」
   ヴァロワ卿はどうやって皇帝の所在を掴んだのだろうか。単独で行動することの危険性を弁えているのに、何故俺にさえ連絡を寄越さないのだろう――。
「私からも連絡を取ってみます。連絡が取れたら其方に知らせますから……」
「お願いします。……それから、連邦と共和国にこのことを報告した方が良いのでしょうか」
「……ヴァロワ卿は長官の座にあります。フェイ次官には私から伝えますので、アンドリオティス長官にはヘルダーリン卿から伝えておいてもらえますか?」
「解りました」
   ヘルダーリン卿と別れ、すぐにヴァロワ卿の携帯電話に連絡をいれてみた。プルルルと回線は繋がっている。留守番電話にも繋がらない。電源が入っていて、且つ電波の繋がる場所に居るのだろう。もしこの携帯電話がヴァロワ卿と共に在るのなら。

   何かあったのだろうか――。
   皇帝の所在が掴めたという内容のメールが、早朝に送信された。ヴァロワ卿はどうやってそれを知ったのだろう。
   それに、今は皇帝を追っている最中なのか。それとも、皇帝を追跡中に襲撃されたのか――。


「何かあったのか? ロイ」
   部屋に戻るなり、フェイが問い掛けてきた。早朝の5時にカサル大佐の許にメールが入ったと言っていた。今は午前11時だから、もう6時間以上も行方が掴めないことになる。あの律儀なヴァロワ卿が連絡を絶やす筈が無い。
   やはり何かあったと考えるべきだ――。
「ヴァロワ卿の行方が掴めない。今朝の5時に皇帝の居場所を突き止めたという報せがあって以来、連絡が途絶えているらしい」
「ヴァロワ大将が……!?」
   一大事ではないか――と、フェイは立ち上がる。ワン大佐もペンを置いて此方を見遣った。
「ヴァロワ卿は連絡を絶やす人物ではない。……だから、何かあったのかもしれない」
「そうだな……。至急、アンドリオティス長官と協議して捜索隊を」
「待ってくれ、フェイ。あのヴァロワ卿がそう容易くやられる筈が無い。もしかしたら皇帝を見失ってはならないと、一人でひっそり後をつけているのかもしれないとも思う。捜索をするにしても極秘で頼む」
   フェイはすぐにアンドリオティス長官の許に連絡を入れる。
   ヴァロワ卿――。
   何故、早朝に皇帝の居場所を突き止めることが出来たのか。何故――。


   胸の内の携帯電話が鳴る。アンドリオティス長官との連絡を終えたばかりのフェイが、此方に注目する。
   ヴァロワ卿からだろうか――。
   胸元から取り出して画面を見ると、フリッツからだった。
「どうした?」
「ハインリヒ様!お早くお戻り下さい……!フェルディナント様が――」

   ルディが意識不明の状態に陥った――。

「な……」

   何故――?
   昨日も今朝もルディの具合は良かった。朝は俺を見送ってくれた。
『行っておいで』
   具合が悪そうな様子はなかったではないか。それが何故――。

「すぐ……戻る……」
「ロイ、ヴァロワ卿からか? 何かあったのか?」
   早く屋敷に戻らなければ――。
   気ばかりが焦る。意識不明――この言葉が、動作を緩慢にさせているようだった。
「屋敷に戻る。兄が意識不明の状態に……陥った……」


[2010.4.5]