ヴァロワ中将は先に部屋を辞した。彼は無謀な男ではないから、此方の説得に応じてくれるだろう。
「惜しい人物を失ってしまいました」
アントン中将は深く息を吐いて言った。
「今回のことは私の甘さが招いたことです。そしてあちらが手段を選ばないということも露呈した」
「あちらが焦っているように思えてなりません。閣下の御二男の評価も高く、御長男も外務省に入られた。御長男は優秀で長官候補と目されている……。あの御仁の眼には、ロートリンゲン家が力を伸ばしつつあるように見えてしまったのでしょう」
「二人の息子達は未熟者だというのに……。あの二人がザカ中将やヴァロワ中将と懇意にしていることも気に入らなかったのでしょうな」
「御子息がたが意識せずとも、派閥を作っているように見えたのでしょう」
ヴァロワ中将の身を守るためにも、二人と距離を置かせた方が良いのだろうか――ふとそんなことを考える。
否、どちらにせよ同じことだ。私がヴァロワ中将を支援している限りは。
「それにヴァロワ中将自身も後輩から慕われています。上官からは嫌われていても、ヴァロワ中将のやり方に同調する人間も増えてきています。今後も常にヴァロワ中将は標的とされるでしょう」
「身辺に護衛をつけた方が良さそうですな」
今回のようなことを二度と繰り返さないためにも、此方も体勢を整えておかなければならない。ハインリヒがせめて中将となれば、発言力も強まって、また少し事情も変わってくるだろうが――。それまでの間は――。
「護衛など必要ありませんよ」
アントン中将は笑いながら言った。しかし、それではまたこのようなことが起きるのではないだろうか。
「頭も切れれば、技も切れる男です。観察力があるから、異変はすぐに察知する。おまけに射撃も正確です。今回の一件で、今迄以上に身辺を気遣うことでしょう」
父上が私達の待機する部屋に入って来たのは、別れてから三時間後のことだった。その間、ザカ中将のことについてロイとずっと語り合っていた。ヴァロワ卿は何か御存知かもしれないな、後で話を聞いてみようか――と言っていたところだった。父上だけが戻ってきて、ヴァロワ卿もアントン中将も側には居なかった。
「お二方は?」
「先に帰った。私達も帰るぞ」
父はケスラーに連絡した。程なくしてケスラーが迎えに来て、私達はホテルを出た。
「父上。ザカ中将は本当に事故で……?」
ロイが父上に問うと、父上はロイと私を見遣って言った。
「お前達はこの一件に関与するな。良いな、フェルディナント、ハインリヒ」
「父上……」
父上はおそらく真相を知っているのだろう。そしてそれはやはり、事故ではないということを暗示していた。
ロイも私もそれ以上のことは尋ねなかった。
車で30分ぐらい走ったところだろうか――、不意に父上が口を開いた。
「軍は帝国の闇を抱えている。帝国という国が、軍人による侵略を基礎に出来た国である所以だ。その軍人が領主となり、領地を支配していった。今でも我が家のように存続している家もある」
父上がこんな話をするのは珍しいことだった。静かに耳を傾けていると、もうじき300年だ――と父は言った。
「300年も経つのに帝国内部は何も変わらない。闇は小さくなるばかりか、大きくなっていく。その拡大を止めようとする者がいなければ、帝国はいずれ闇に飲まれていくだろう。……ハインリヒ、お前は軍の暗部が少し見えてきているかもしれない。フェルディナント、お前も官吏であり続けようとするなら、闇と直面することもあろう。私はお前達二人が闇に飲まれ、闇を拡大させる要因にならなければ良いと思っている。……もし闇を拡大させるような要因を作り出す側の人間となったら、私は即座にお前達を追い出すつもりだ。たとえ二人を失うことになっても……、ロートリンゲン家を断絶させることになっても、だ」
「父上……」
父は嘘を嫌う人間だ。だから、追い出すという表現はその言葉通り、家を追い出されるのだろう。
父上の言う、軍の闇とはどういうことなのか。何となく解るようで、私にはまだよく解らなかった。
それ以後、父とヴァロワ中将がザカ中将の名を出すことは無かった。ロイによると、ヴァロワ中将に変わった様子も無かったらしい。仲の良い友人というだけに案じていたが、ヴァロワ卿は強い方だった。
私はずっとあの日の父上の言葉を忘れられなかった。軍の闇とはどういうことか。父上が闇と表現したものは、おそらく旧領主家のことだろうが――。
軍における強大な旧領主家となると、フォン・シェリング家で、父上の表現によれば彼が闇を拡大させているということだろう。確かに、フォン・シェリング大将は人を見下すような方ではあるが――。
ザカ中将の突然の訃報から、ひと月が経とうとしたある日のことだった。
「大将だと!? あのような男を大将とし、発言力を高めさせたらこの帝国にとって危険すぎる存在となるぞ!? 何としても却下しろ」
軍務省の第二会議室の前を通った時、大きな声が聞こえて来た。
この声はフォン・シェリング大将の声だ。人事の件で揉めているのか。
「しかし……。閣下……。彼は優秀で実績も豊富であり、他の大将方にも引けをとらず、申請を断る理由が……」
「絶対にならん! あの男は危険人物だ。支部に遠ざけたいと思っているのに、それも叶わん。司令課副官という職でさえ、あの男には余りあるほどだ」
司令課副官――?
まさか、ヴァロワ中将のことなのか。
大将へ昇級する話が出ているのか……?
「しかし……、元帥から彼の昇級を求める声が幾度となく上がっています。もう何度お断りしたことか……」
元帥――。
父上か。父上がヴァロワ卿の昇級の推薦人となっていることは知っていたが――。
幾度となく、ということは大将への推薦がこれまでにもあったということだ。
「構わん。捨てておけ。退官した男がいつまでも軍の方針に口を出してもらっては困る」
「閣下……」
「あの男、ロートリンゲン家と親密な関係にある。息子二人があの男に毒されているようだからな。フォン・ビューロー大将もあの小生意気な二男がなかなかやりにくいと言っておった。……とはいえ、相手はロートリンゲン家、無下にも出来ん。支部に遠ざけたいものだが、それも出来まい。かといって、本部ではあの二男を慕う者が増えてきている。このままではロートリンゲン家の力が強まる一方だ。あの長男も一筋縄ではいかない男らしいからな」
「二人……いや、三人一度に遠ざける口実があれば良いのでしょうが」
「元帥が背後に居る以上、此方も動きづらい。ザカのことにも気付いたようで、ヴェネツィア市に圧力がかかった。市警は今や元帥の言いなりだ」
「ではすべて明るみに……?」
「何とかそれは避けられたがな。あの男、陛下に進言して私の降格を求めてきた。つい先日のことだ。陛下から呼び出しを受けて……」
ザカ中将の一件は、フォン・シェリング大将が仕組んでのことだったのか――。
やはり、暗殺だった――。
許せない――。
ザカ中将に何の非がある?
許せない――。
第二会議室の扉を開けようと、ドアノブに手をかけた。
その時、私の手を誰かが掴んだ。
「行くぞ」
小声でそう言って、私を引っ張る。
ヴァロワ卿だった。
「ヴァロワ卿……」
「嫌なことは聞き流しておけ。そうでなければ身が持たん」
「しかし……!」
「君は外交官だ。軍の内部に口を挟まない方が良い」
「事故死でないだろうことは薄々気付いていました。しかし、あのように本人が言っているのなら、明るみに出して糾弾することも……!」
「表沙汰にすれば、如何に旧領主層とはいえ、君の立場も危うくなる。冷静になって考えてみろ」
ヴァロワ卿は私を中庭に連れ出した。いつのまにか落としていたらしい資料を私の前に差し出す。
「……ヴァロワ卿はこのまま放っておくおつもりですか」
「ああ」
「何故……!? 何故です!? 仲の良い友人だったではないのですか……!?」
「ザカ中将は身の危険を感じて、私宛の伝言を残していたんだ。何があっても本部に居続けろ――とな。その意味をずっと考えた。辿りついた結論は、ただ一つだった」
ヴァロワ卿は中庭の噴水の前に歩み寄る。私もそれに倣うと、ヴァロワ卿は言った。
「この軍の体質を変えること――。とはいっても、私が出来るのは微々たることだ。私はおそらく今後の昇進は難しい。だが、中将という階級を得ている。少将や准将、佐官それに尉官、下士官達の意識を変えることはきっと出来る。少しでも今の軍の体質を変えることに尽力することで、ザカ中将の弔いに変えたいと思ったんだ」
この人は――。
私などとは比べものにならないぐらい強い人だ。そして物事をよく見ている。
父上が、ヴァロワ卿を大将に推薦するのも頷ける。こんな人は珍しい――。
軍にとって、代え難い存在だろうに――。
「ヴァロワ卿……」
「君やハインリヒは私以上に物事を変える力がある。今はその力を蓄えておけ。……ザカ中将も私も、君達という存在に期待しているんだ」
この日、私は初めて自分自身に誓った。帝国を掬うこの大きな闇を追い払ってみせる――と。
私は軍務省に所属することは出来ない。だが、軍務省の外から何らかの圧力をかけることは出来る。一外交官として出来ることが必ずある筈だ――と。
ザカ中将の死は私にとって大きな痛手となり、また帝国を変えるという意志を持つ契機ともなった。
【END】