40歳までしか生きられない――。

   宰相は風邪をひいて休むことが確かに多い。それでも普段は元気そうに見える。
   それなのに命のタイムリミットが解りきっているというのか――。
   それはあまりに残酷なことではないか――。

「このことはフェルディナントもハインリヒも知らないことだ。ただ、フェルディナントは薄々気付いているかもしれんが……」
   40年など短いものだ――、元帥は窓の外を見て呟いた。
「私も妻も何とか身体を大事に労ってやれば、40歳まで生きることが出来るのだと、当初は喜んだ。だがよく考えてみればたった40年だ。そんな子にこの家を背負わせては哀れと思い、弟のハインリヒに望みをかけた。旧領主層といえば聞こえは良いが、その分、縛りも多い。代々続く武門の名を引き継がなければならない。結婚し、子をもうけ、その子が軍人となったら自分の役目を終えることが出来る。私がそうであったようにな。そうして、今度は本当に自分の望む生活を迎えられる」
   ロートリンゲン家の後継者は、長男である宰相ではなく弟のハインリヒだと聞いているが、その理由が何となく解ったような気がした。これまでは何故、元帥がそうと決めたのか不思議に思っていた。宰相は自分のことを父親である元帥がロートリンゲン家のお荷物のように感じているだろうと言っていたが、それは違う。
   元帥はきっと――。
「ところが40歳までにそれら全てを担うことは不可能だ。だから私はハインリヒに跡目を任せることにした。そして、フェルディナントには好きな道を歩ませることにした。芸術にでも興味を持ってくれたら良かったが、フェルディナントは政治に関心を寄せた。これはまったく私の予想外のことだったがな。……だが、それもフェルディナントの選んだ道ならば良かろう」
「……閣下からこれまで御子息のことを伺ったことはありませんでしたが、本当に大事に思っていらしたのですね」
「あの二人は厳しい親だと疎んでいるだろう。それに家の者以外にこんな話をしたことがない」
   驚いて元帥を見遣ると、彼は話は此処からだと言った。
「子供の頃からフェルディナントは幾度となく死線を彷徨ってきた。言うなれば死と隣り合わせの人生だ。そのためか、フェルディナントは自分の命を大切にしない。いつ命数が尽きても悔いはないと思っているだろう」
   若年の者がそのように考えてはならないことだ、と元帥は厳しい口調で言った。
「そして、フェルディナントは自分が正しいと思ったらその道を突き進む。……そんな人間では、いつか皇帝陛下のお怒りに触れることもあるだろう」
「閣下……」
「私がそうだったからな。よりにもよってフェルディナントは私に良く似ている。こうと決めたら、頑として意見を変えぬ。宰相としての責務を果たすのに、それはいずれ短所となろう。身を滅ぼしかねないかもしれない」
「宰相に限って、そのようなことはありますまい。先日も意見の割れた議題について、各省との調整を試みていましたから……」
「いや……。私はフェルディナントがいつか陛下と対立することになるのではないかと危惧しているのだ」
   宰相は皇帝の前で最終試験を受けた。才はあるがまだ若すぎるという者達の声を一蹴したのは、皇帝の一声だった。そして、宰相の任命を受けた。それ以来、皇帝は宰相に信任を置いている。元帥が心配することは無いように思えた。
「その時までにフェルディナントを制止できるような――助言をしてくれるような者が現れれば良い。たとえ間違ったことでも、この帝国下においてはやむを得ないことなのだと納得させられるだけの者が。そうでなければ、フェルディナントは単独で陛下と対立するだろう。あれは短い命だからと言ってそれを捨てることを躊躇しない」
   命を大切にしないとはそういうことだ――元帥はそう言って、ひとつ息を吐いた。それから顔を上げ、俺を見据える。
「フェルディナントは自分一人の命を簡単に差し出す人間だ。生に執着を持たない。それは時として人を強くもするが、ひとつ間違えばただ命を失うだけの無謀な行為となる。ハインリヒにもその傾向があるが、フェルディナントほど強くはない。それに、ハインリヒはたとえ荒野に投げ出されても是が非でも生きていこうとするだろう。……君にこのことを話したのは、もしフェルディナントにそのような事態が起こった時、制止してほしいからだ」
「私に務まることならばそうしましょう。ですが、閣下。宰相は優秀な方、きっとこれからも一人で全てを解決なさっていくのではないでしょうか」
「優秀だからこそ困るのだ。自分で何もかも出来ると思っておる」
   元帥の言葉は意外なものだった。元帥は宰相に対して辛く当たるという話は、ハインリヒからも聞いていた。そのことは俺にとって、不思議でならなかった。元帥は公平な人だったから、息子達を平等に扱うと思っていただけに。
   しかし今の元帥の言葉から察するに、やはり俺のそうした見方は間違っていなかったということだろう。
「私とて、フェルディナントのことは評価している。ただ、フェルディナントはハインリヒよりも厳しく育てたことは事実だ。先程も言ったように、フェルディナントには生への執着が極めて薄い。私はフェルディナントにどんな苦境に立たされても生き抜こうとする、そんな強い人間に育ってほしかった。たとえ命数短くともな」
「そうでしたか……。私は大きな勘違いをしていました」
「皆がそう言う。亡き妻でさえ、私にフェルディナントに対して冷たすぎる、とよく言ったものだ。他の使用人達も同様にな。だが言葉でそれを伝えようとも、フェルディナントは真に理解しないだろう。解りきったこととして済ませる。本当は何ひとつ解っていないのにな」
「それで……宰相に厳しく接している、と?」
「意地でも生きようと……、生きてやると根性を見せてくれれば良いのだが……。どうやらそうとはならず、ただ私を恨んでいるようだ」
   元帥は苦笑する。いつか解ってくれれば良い――そう言って微笑む。
   この方は愛情が深いのだろう。そしてそれを理解されにくい。
「フェルディナントにもハインリヒにも黙っておけよ、ジャン。いつか自分自身で解ってほしいことだからな」
「解りました」





   1時間前のこと、オスヴァルトから携帯電話に連絡が入った。その時に嫌な予感がしていた。職務中なのに携帯電話に連絡をいれてくるということは、私的な用件ということで、さらに宰相が皇帝に会いに行った直後だから、宰相が何か行動を起こしたのだろうと予想していた。
   その予想が外れることを祈りつつ、人気の無い場所に移動して、携帯電話の通話ボタンを押した。オスヴァルトは掠れた声で、閣下が宰相室を出て行った――と言った。
   予感は的中した。
   宰相は皇帝の命令に背くかもしれないと、薄々感じていた。その宰相が、宰相室を出て行き、今向かっている場所は何処か――、思い当たる場所はあった。アンドリオティス長官が収監されている収容所に向かったに違いない。

   俺もこのまま収容所に向かうべきかどうか――悩んだ。このような事態となったからには、宰相を説得するのは難しいだろう。きっと俺を倒してでも、彼を共和国へ送り届けるつもりだ。
   ならば、宰相達の進む経路を先回りして、待ち伏せた方が得策だ。共和国まで比較的警備の薄い国境は――リヤドだ。リヤドから共和国領のマスカットに入るつもりだろう。
   では今、宰相はどうやって移動しているのだろうか。

   扉がノックされる。返事をするとブラマンテ少将が血相を変えて入室した。宰相のことだろうか。もう知れ渡っているのか。
「閣下、大変です。宰相閣下がバルト収容所で所員達に暴行を働いたと……!」
   既に収容所でアンドリオティス長官の身柄を保護したということか。
「アンドリオティス長官の逃亡を手助けし、共に逃げたと……。今、憲兵達が二人を追っています。閣下、宰相閣下は一体何故……」
「どうやって逃げたか、情報は入っているか?」
「車ということです。白い車だったと。ですが、まだ居場所を突き止められず……」
   白い車――。
   ロートリンゲン家がいつも使う車は黒い車だ。白い車ということは、おそらく宰相の私用の車だろう。
「……私も捜索に参加する。何か情報が入れば、携帯に連絡をくれ」
   バルト収容所からリヤドまでの道程で、人目に付きにくい経路となれば、大体宰相の行動は読める。



   そして俺の考えていた通りの経路を、宰相は選んだ。俺の眼の前で車が停まり、宰相とアンドリオティス長官が車から出て来る。宰相は厳しい顔で此方を見ていた。
   この場で宰相を止めることは無理だと、俺は解っていた。宰相は穏やかな反面、鋼のように強い意志を持っている。
『こうと決めたら、頑として意見を変えぬ。宰相としての責務を果たすのに、それはいずれ短所となろう』
   元帥は全てお見通しだったということか。
『私はフェルディナントがいつか陛下と対立することになるのではないかと危惧しているのだ』
   まったく――元帥には頭が下がる。
   此処で是が非でも宰相を連れ帰れば、宰相は別の手段を講じるだけだろう。
   ならば、このままアンドリオティス長官と共に、新トルコ共和国へ亡命させた方が良い。
   その方が宰相の能力も活かせる。この国では皇帝の権限に阻まれて、飼い殺しとなるだけだ。
   ただ、俺は宰相に言っておかなければならないことがある。
   元帥がずっと案じていたことを――。

「生きろ」

   宰相にどうしてもその言葉を言っておきたかった。これから先何があろうとも、決して命を粗末にしないように。
「解りました。ありがとうございます。ヴァロワ卿」
   本当に解っているのか、いないのか――。
   それでも――、宰相の眼はいつもより数段も輝いているように見える。このところずっと沈んでいただけに、漸く本当の宰相の姿を見たような――。
「早く行け。この先はまだ捜査が及んでいない。今のうちに出来るだけ遠くに移動しろ」
   宰相とアンドリオティス長官は、車に乗り込むとすぐに発進させた。その車を見送りながら、敬礼をする。宰相はそれに気付いた様子で、ぺこりと頭を下げる。

   一旦は鳴り止んだ携帯電話がまた鳴り始める。通話ボタンを押すと、宰相閣下の居場所は掴めましたかと、ブラマンテ少将からの確認の電話だった。
「いや、此方には居なかった。今から別の場所を探しにいくつもりだ」
   二人の行き先をもう一度見遣り、それから俺は宮殿へと戻った。


   ハインリヒに続き、まさか宰相までもこのような別れをすることになるとは思わなかったが……。
   だが、宰相にとってはこれが最善の途だ。
   自由に発言と議論の出来る、新トルコ共和国へ亡命することが――。


[2010.2.2]