Life



「御無沙汰しております」
   ロートリンゲン家に足を踏み入れたのは、今回が初めてだった。邸の前を通ったことは何度もあるが、その門から中に入ったことは無い。
   宮殿から程近く、街からは少し離れた閑静な場所に、ロートリンゲン邸はある。建国当初から続く、帝国でも有数の名家であることを証明するように、門構えは立派で、その背後には広大な庭園が広がっている。

   ハインリヒや宰相が気軽に遊びに来るように言ってくれるが、どうしても気後れしてしまうのはどうしようもない。俺のような庶民からすれば、気軽に立ち寄れるような家ではない。門の前にこうして立っただけで、背筋をぴんと正してしまう。

「ジャン・ヴァロワ様、どうぞお入り下さい」
   閉ざされた門の横に来客者用のボタンがあって、其処を押して暫く待つと、声が聞こえて来た。セキュリティの為だろう。このような家ならば泥棒が入るのも頷けるし、何より宰相が子供の頃に誘拐されたことがあるという話も聞いたことがある。
   門がゆっくりと開いていく。
   アポイントメントを取り付けてあったので、こうしてすぐに門を開けてくれたのだろう。それにしても、門から邸の扉までの距離の長いこと。道々に木や花が植えられている。綺麗だとは思うが、俺としては雑草が生い茂っていた方がまだ落ち着くのではないかと思う。庶民にすぎない俺には、こんな邸での生活はきっと落ち着かない。

   漸く大きな扉の前に辿り着いて、呼び鈴を鳴らす。執事が現れた。旦那様は部屋でお待ちです――、彼は静かにそう告げると、俺をその部屋に案内してくれた。邸の中もその外見に劣らぬこと。吹き抜けの天井は非常に高く、部屋の扉ひとつひとつには豪奢な彫りが施されてある。おまけに広すぎて、家の構造がどうなっているのか、一目で把握出来ない。
   廊下で使用人らしい中年の女性と出くわす。その女性は廊下の端に寄って一礼し、いらっしゃいませと微笑む。彼女に目礼して、執事の男の後について歩いた。
   執事の男が扉を開け、ジャン・ヴァロワ大将閣下がお見えです、と告げる。彼に促され部屋に一歩足を踏み入れて、長い無沙汰を詫びた。

   ロートリンゲン元帥が退官してから4年が経つ。彼の姿をこうして間近で見るのは4年ぶりのことだった。昨年、夫人が亡くなり、その葬儀に列席した際も、ロートリンゲン元帥は酷く老けてみえた。愛妻家だったと聞くから、悲しみに暮れていたに違いないと思った。
   それにしても、今も酷くやつれて見える。それまで椅子に腰掛けていた大将は、杖を持って立ち上がった。驚いてその姿を見つめると、元帥は苦笑して言った。
「今年に入り大病を患ってしまった。どうもそれ以来、身体が弱ってしまってな。今は杖が無いと足下が心許ない」
「どうぞお座りになってください。私が其方に参ります」
   ロートリンゲン元帥といえば、背筋をぴんと伸ばし威風堂々と闊歩する人物だった。それが杖の支え無しには歩けないほど弱々しい姿となっていた。
「君は元気そうで何よりだ。大将への昇進、おめでとう」
   ロートリンゲン元帥はゆっくりと椅子に座り、向かい側の席を俺に勧めた。ありがとうございます、と一礼してから、腰を下ろす。

   今日、このロートリンゲン家にやって来たのは、大将となったことを元帥に報告するためだった。准将の時、元帥と顔見知りになってからというもの、俺の昇進にはいつも元帥の強力な後押しがあった。
「尤ももう少し早く昇進出来るかと思っていたが……、どうやらフォン・シェリング大将がまた君に圧力をかけたようだな」
「大将に昇進出来ただけ、御配慮頂けたということでしょう」
「君も言うようになったな。5年後には是非、長官となった姿を見せてほしいものだ」
「このままで充分過ぎるほどですよ。私は長官の器ではありません」
   世渡りも下手ですから――と率直に告げると、元帥は笑いながら、君は変わらんなと言った。
「閣下の御子息こそ、長官に相応しいではないですか。皆言っていますよ。ロートリンゲン中将は来年には大将となるのではないか。そして最短で長官に上り詰めるだろう、と」
   ハインリヒは若干25歳だが既に中将であり、来年には大将となるのは確実だと噂されている。そして海軍部の現長官が、私の後はロートリンゲン中将だ――と言っているのだから、ハインリヒが長官となることもほぼ確定したようなものだった。
「そうなって欲しいものだが、早すぎる出世もあまり良いものではないな。本人が慢心する」
   ロートリンゲン元帥はそう言って笑みを浮かべる。4年ぶりに聞く、彼らしい発言だった。
「ハインリヒには私が教えられることは全て教えた。才覚云々ではない。人よりも早い時期から教育を受けただけのことだ」
   フェルディナントも同じだが――と、ロートリンゲン元帥は何気なく言う。意外に思えて聞き返そうとしたその時、扉を開けて先程の女性が入って来た。彼女はロートリンゲン元帥と俺の前に、珈琲をいれたカップと菓子を置く。ミクラス夫人、彼がヴァロワ大将だ――とロートリンゲン元帥は彼女に言った。
   ミクラス夫人――、ハインリヒや宰相の話によく出て来る。教育係と言っていたか。
「はじめまして。アガタ・ミクラスと申します。フェルディナント様やハインリヒ様が、御世話になっております」
   ミクラス夫人は丁寧に挨拶をした。此方も挨拶を返すと、ミクラス夫人はハインリヒや宰相によく話を聞いていますよ――と言った。穏和そうな夫人だった。怒らせると怖いとハインリヒは言っていたが――。
   そのミクラス夫人が部屋を去ると、元帥は珈琲カップを持ち上げた。
「先程のお話ですが、宰相も閣下に武術を……?」
「自分自身を護ることの出来る程度にはな。フェルディナントは筋が良かった。身体さえ丈夫だったら――と何度思ったことか。フェルディナントはハインリヒと違い、自ら進んで士官学校に入っただろう」
「そうでしたか……」
「フェルディナントは護衛をつけたがらない。子供の頃に誘拐されたことがあってな。その際、フェルディナントを護衛していた者が殺された。自分のために死人を出したくない――あれ以来はそう言って、護衛を嫌がる」
「それで自ら護身術を……。確かに、宰相として任命を受けた際、護衛を断ったと聞いております」
「贔屓目にみれば、フェルディナントを易々と倒すことの出来る者は帝国にそうそう居まい。尤も今のハインリヒには勝てまいが」
「中将の強さは省内でも評判ですから」
「あれは子供の頃から鍛えていたからだ。私から言わせれば、強くて当然だ」
「手厳しい」
   苦笑すると、元帥は首を振った。
「そうでなければ慢心する。慢心はいつか自分の足下を掬う」
「ご心配なさらずとも中将も宰相もその心配の必要は無いでしょう」
「そうだと良いが……」
   元帥はカップを持ち上げた。一口飲んで、静かにそれを置く。
「どちらかというと、私はフェルディナントの方を心配している。あのような若さで国を統括する宰相となった。……勿論、私にとっても喜ばしいことで、合格したと聞いた時には驚き喜んだが……、フェルディナントのことを考えれば宰相となったことは、あまり良いことではなかったと思う」
「宰相のお身体をご心配されてのことですか?」
「……それもある。いや、それが引き金になることか」
   どういう意味なのだろう。
   宰相の性格から考えても、そんなに慢心するような人間ではないと思うが――。
「フェルディナントは虚弱体質でそう長生きは出来ない。子供の頃は成人まで生きられるかどうか解らないと医師から言われていた程だ」
「今の宰相からは想像出来ませんが……」
「今でも季節の変わり目には必ずと言って良いほど寝込む。尤も少しは改善したようで、子供の頃ほど寝込むことは無くなったがな……。それでもあの子は40歳までしか生きられない」

   宰相が40歳までしか生きられない――?
   さらりと元帥が言うので聞き逃しそうになった。もう一度、聞き返す。俺の聞き違いではないか。

「……何故、そうお考えに?私の眼には宰相は虚弱体質にさえ見えませんが……」
「生まれて間もない頃、フェルディナントの体質が明らかになって、何とか治せないものかと医師に相談した。其処で遺伝子治療を試みることになってな。結局、治療はうまくいかなかったのだが、その際、偶然にフェルディナントの命数を聞かされることになったのだ。奇跡的に成人することが出来たとしても、身体の細胞が40歳までしか耐えられない、とな」


[2010.2.1]