ハイドゥーン大将はそれから立ち去って行ったが、俺はまた不勉強であることを再確認せざるを得なかった。俺の語学力では太刀打ち出来ない。
「多分、君の存在に気付いて声をかけてきたのだろうな」
   歩き出すと、ザカ中将は何気なくそう言った。
「すみません、ザカ中将。これでは私は本当に足を引っ張ってしまうことになります」
「きちんと挨拶が出来たではないか。充分だ」
「ですが……」
「話はどれぐらい聞き取れた?」
「半分しか聞き取れていません。ハイドゥーン大将閣下が帝国のことについて何か言ったのもまったく聞き取れませんでした……」
「帝国がこのたび発令させた新防衛政策を再考してもらいたいものだ――と言っていたんだ。この辺は聞き流しても構わんよ」
「ザカ中将も鮮やかに言語を操られますね……。私は今迄暢気に過ごしていたので、勉強を始めたばかりで……」
   落胆してしまう。ザカ中将が期待をかけてくれていても、俺はまだ何も出来ない。未熟すぎて――。
「何もかも初めから出来る訳ではない。私も軍に入ってから、新トルコ語を習得したんだ。ジャンのように初めから多言語が万能な人間は滅多に居ないからな」
「ヴァロワ卿が何でも出来る方なので、自分の未熟さばかり見えてしまいます。私もヴァロワ卿のようにならなくてはと思うのですが……」
「仕事に関しては有能だが、私生活は荒れ果てているぞ」
   ザカ中将は苦笑混じりに言った。
「本ばかり読んでいるから知識はある。が、上官との付き合いが下手すぎる。角を立てるなと常に言っているのに、角どころか棘を立たせているからな。そういう面は真似てはいけないぞ」
「本を読む時間が作れるだけすごいですよ。私は一日に一時間裂くので精一杯です」
「それは大佐、ジャンの私生活を知らないから言えることだ」
「え?」
「一度自宅に行ってみると良い。玄関から既に本が積み上がり、廊下にリビング、ダイニングまで本の山だ。足の踏み場がない。士官学校時代の寮の時はそこまで酷くなかったのだがな。どうしてこんな状態になったのか尋ねて呆れたものだ。五分でも時間があれば本を開くから、側に置いておくのだと。一人で食事をする時は本を読みながら、さらには浴室まで本を持ち込むというからな」
「そんなに……」
「だからジャンの真似をしては駄目だ。滅茶苦茶な生活になる。それこそ君の父上に叱られるぞ」
   ジャンは私生活を捨てているんだ――とザカ中将は言い切った。この場にヴァロワ卿が居たら、すぐさま否定しそうだが――。
「君はこのまま仕事と勉強を両立させれば良い。それだけでジャンのように仕事が出来るようになる。その素質を持っていると私は思っているよ」

   新トルコ王国での三日間の国際会議を何とか乗り切り、ザカ中将に命じられた仕事に取り組みながら無事に出張を乗り切った。三日目には大分耳が新トルコ語に慣れて、会話の八割がたを聞き取ることが出来るようになっていた。
   帝都に戻り、報告書を作成してからザカ中将はヴェネツィアに帰っていった。






「お帰り。ロイ」
   そろそろ帰宅しよう――と思って支度を始めたところへ、ルディがやって来た。まさかルディが出勤しているとは思わなくて驚いた。俺が出張に行く前から、ルディは体調を崩して休んでいた。てっきりまだ休んでいるのだと思っていたが――。
「治ったのか?」
   尋ねると、ルディは頷いて言った。
「今日から出勤したんだ。流石にすぐ残業するとまた体調を崩すから、今日は早めに帰ろうと思って。そうしたらちょうど先刻、廊下でザカ中将に会ったんだ」
   それで俺もそろそろ帰宅するだろうと思って、軍務省に来たらしい。今から帰るよ――とルディに告げて、鞄を持った。
   ヴァロワ卿に会って今回のことを話したかったが、ずっと席を外していた。資料室に居るのか、それとも忙しくて動き回っているのかもしれない。


   上官と局長に帰宅の旨を告げてから、軍務局を後にする。宮殿内を肩を並べて歩いていると、新トルコ王国はどうだった――とルディが尋ねてきた。
「街を見る余裕も無かったよ。言葉を何とか聞き取れ出したのが三日目だった」
「確かに聞きとりにくいな、新トルコ語は」
「ルディもそうなのか?」
   驚いて問い返した。言語に関して、ルディが困っている様子など一度も眼にしたことがなかった。
「音に慣れないと聞き取りにくいし、発音も難しい。先々月だったかな、新トルコ王国の外交官と電話で話した時、どうも聞き取りにくくて何度も聞き返したよ」
「何だ……。ルディでもそうなんだ……」
「私でもって……」
「ヴァロワ卿もルディもすらすらと言語を操るじゃないか。だから……」
「大学時代に言語は勉強したからな。外交官になりたかったし……。ああ、でもヴァロワ卿も言っていたぞ。新トルコ語を聞き取るのに時間がかかった、と。新トルコ王国の戯曲を聞いていたら慣れたと言っていた」
   ヴァロワ卿も――。
   それを聞いたら少し安心した。
   少しずつ勉強していけば良い――というザカ中将の言葉も今になって受け止められた。
   このところ、俺はずっと焦っていた。俺だけが何も出来ないような気がして。
   焦る必要は無い――。
   それまでの焦燥感が漸く抜けていくような、そんな気がした。

「ロイ?」
「何でもない。ところで歩いて帰って大丈夫か?」
「いや、今日はケスラーを呼んでいるんだ。多分、もう門に来ている頃だと思う」
   この日、出張前より晴れ晴れとした気分で帰宅した。
   それまで胸を犇めいていた焦燥感が消え去り、頑張ろうという思いだけが胸に残っていた。
   そうすればこんな俺でもいつか役に立てるかもしれない――と。


【End】


[2012.6.24]
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