「ムラト次官。至急、臨時予算の件で署名を頂きたいのですが」
テオが書類を手に入室する。支部移転にともなう予算が足りず、臨時予算を組んで、議会に承認してもらっていた。その関連書類だろう。
「解った。ところでお前も午後からの会議には参加するのだろう?」
「はい。会議に参加してから、支部に行って来ます」
「長引くようだったら、途中で抜けて良いぞ」
少し厄介な案件があって、外交部も会議に参加するから、長引くかもしれないことは予想出来ていた。あまり遅くなると、今日一日で視察から帰って来られなくなる。
「解りました。三時を過ぎたら、こっそり抜け出します」
頷いてから、書類を一読する。問題は無いようなので、其処にさらりと署名を書き付けようとした。
パキン、とペン先が折れた。強く押しつけた訳でもなかったが――。
「ペン先が折れた……。インクが飛び出さなかったのが幸いだが」
「見事に折れましたね。替えのペンを持って来ましょうか?」
「いや、替えは他にも……」
机の抽斗を開けようとした時、慌ただしく扉が開いた。ノックもせずに誰だと思ったら、ラフィ大将だった。血相を変えて、私を見つめる。
「どうした? 会議が中止にでもなったか?」
これだけ慌てて、しかも顔面蒼白になっていることからしても、余程の事態が生じたのだろうか。
「長官……、長官が……」
レオンが?
レオンがどうかしたのだろうか。
「事故に遭って……、病院から連絡が……。意識不明だと……」
事故に、遭った……?
レオンが……?
意識不明……?
「……確かな情報なのか、それは」
どくんどくんと胸が鳴っていた。それを抑えるように務めながら、冷静になれと自分に言い聞かせながら、やっとの思いでそう問い返した。
「カイザス病院からの連絡です……。長官の身分証明を見て、此方に連絡を……」
「カイザス病院ですね……!?すぐに行きます。ムラト次官、許可を……」
「待て、テオ。私も行く。ラフィ大将、留守を頼む。またあとで連絡をいれる」
胸騒ぎが止まなかった。レオンが事故にあったとは俄に信じがたい事実だった。
昨晩、遅くまで飲み明かしていたのが悪かったのか――。
テオと共に病院に入り、テオがレオンの弟であることを告げると、すぐに病室へと案内された。
入室すると、消毒か何かの強い香りがつんと鼻についた。そのなかで、ベットのうえで、レオンは何事も無かったかのように静かに眠っていた。
「兄さん……!」
テオがすぐ側に向かう。
医師と看護師が控えていた。医師は此方を見ると目礼して言った。
既に心肺停止状態だと――。
「心肺……停止……?」
「手を尽くしましたが……」
莫迦な――。
レオンが――。
レオンが、死んだ?
事故だと?
何故、事故に――。
その日のことは、ひとつひとつの出来事を光景まで思い出すことが出来るが、それを一日の出来事として繋げることが出来ない。レオンの突然の死は私にとって、それだけ衝撃的な出来事だった。
テオは必死になってレオンの眼を覚まさせようとした。兄さん――と、何度も呼び掛けていた。しかし、レオンの眼が開くことはなかった。
一体何故、事故に遭遇したのか――。
警察と医師から詳しく聞いたところ、レオンは車道に飛び出した子供を助け、その時に車にはねられたとのことだった。そのことによって内臓破裂を起こし、それが致命傷となった。事故直後、子供を確り抱いたレオンは、子供に怪我が無いかどうか尋ねたらしい。怪我一つないことを、側に居た老人が告げると、安堵したように笑んだのだという。すぐに病院に運ばれたが、その時には既に意識を失っていた。
軍服を身につけていたことからも、通勤途中だったのだろう。昼からの出勤の時、レオンはいつも少し早めにやって来る。ちょうどその時間に起こった事故だった。
子供を助けるために、自分が犠牲になった――。
レオンらしい――最期だった。
あと10年は長官を務めるようにと約束した直後のことだった。
約束――。
俺達が交わし続けた約束が、最後の最後で反故にされた。
「レオン……」
長官室はレオンが去った日のままとなっていた。俺がレオンの後任として、長官となることが先程決まった。
子供を庇って自分が犠牲になるなど、レオンらしい死に方だと思っても――。
惜しまずにいられなかった。
「長官、失礼します。議長がお会いになりたいと連絡が入っているのですが」
ラフィ大将が現れる。軍上層部は全員が喪章を腕に身につけていた。新たに次官となったラフィ大将の腕にも、俺の腕にも。
「解った。今から尋ねると伝えてくれ」
せめて俺に出来ることは――。
レオンの遺志を継ぐことだけだった。あの日の約束を、私が全て引き受ける、ただそれだけを――。
【End】