「海だ!」
   窓を全開にしようとするウィリーを、フィリーネが身を乗り出すと危ないからと言って注意する。
   出立から五時間、車はマルセイユに入った。まったく相変わらずハインリヒの運転は見事なもので、最短時間で到着させる。
   ハインリヒとはもう長い付き合いだが――。
   ロートリンゲン家のマルセイユの別邸には初めて訪れた。本邸よりは小さいが、部屋はいくらでもあるとハインリヒが言っていたように、山奥にある大きな別荘だった。ミクラス夫妻が先に別荘にやって来ていて、出迎えに出てくれた。御無沙汰しております――と、ミクラス夫人は私を見て言い、子供達にも声をかけてくれた。それから、子供達は森の中を駆け回り始める。
「あまり遠くに行っては駄目だ。それからウィリー、きちんと二人の面倒を見るのだぞ」
   子供達に言い渡すと、はあい、というウィリーの声が聞こえてくる。
   しかし――、ウィリーに任せたとはいえ、見知らぬ土地だ。一緒に行った方が良いか。
「護衛が子供達を見ていますから大丈夫ですよ。敷地外に出ることがあれば、連れ戻してくれるよう言ってありますから」
「そうか……。やはり今でも護衛は必要なのか?」
「以前に比べたら平穏にはなりましたが、脅迫電話が全く無いという訳でもないですから」



   この別荘は風通しの良い造りになっていて、大きな窓を開け放てば風がさわりさわりと入り込む。私とフィリーネは同室――同室といってもベッドはきちんと二台設置されてあり、寝室以外にも浴室や応接室が備わっているような広い客間で、子供達にも同じような部屋が用意されていた。
   ウィリーとミリィの部屋には、ユーリがやって来た。今日は一緒に寝るらしい。三人が寝静まってから見に行くと、二台のベッドをひとつに繋いで、三人が仲良くひとつのベッドで眠っている。何とも可愛らしい光景だった。


「ヴァロワ卿。偶には飲みませんか?」
   到着したこの日の夜、ハインリヒはリビングで共に飲もうと誘ってきた。快く誘いに応じると、ハインリヒは上機嫌で高価そうなブランデーを出してくる。
「父の秘蔵品です。この別荘の地下にクーラーがあるんですよ」
「それはまた随分な代物ものだな。開けて良いのか?」
「何本もありますよ。お気に召したら持って帰って下さい。私しか飲まないので」
   ハインリヒはそれを開けてグラスに注ぐ。琥珀色の液体をグラスに満たして、ひとつを私に差し出した。礼を述べてそれを受け取り、一口飲む。深い味わいに思わず溜息を零した。
「最近、健全な生活を送っているのでしょう?」
「確かに酒を飲む機会も減ったな。ごく偶に、長官室の部下達と飲みに行くことはあるが……」
「私も似たようなものです」
   ハインリヒはそう言って笑ってから、ブランデーを飲んだ。
「そういう場ではやはり落ち着いて飲めなくて……。とはいえ、一人で飲むのは何となく味気ないですし、こうして久々にヴァロワ卿とグラスを傾けるのを楽しみにしていました」
「そうだな。もう随分経つ。……時間の流れというのは早いものだと感じるな」
   ハインリヒと過去を振り返りながら語り合う。10年前のことが去年か一昨年かの出来事のようにも思う。
「それにしても……、今日一日見ていて思ったが、ユーリは本当にフェルディナントにそっくりだな」
   まだ二歳なのに、物を数えることばかりか、文字も大分読める。鉛筆を持って自分の名前を書いている姿を見た時は、驚きを隠せなかった。
「あの時分のルディ、そのままですよ。見ていて、どきりとすることがあります」
「ロートリンゲン家の血を濃く引いているという訳か」
「ロートリンゲンというより、私の母方のコルネリウスでしょう。ルディは母親似だったし、コルネリウスの人々は総じて頭が良かった。少し前にゲオルグと会いましたが、ルディに似ていると驚いていました」
「成長が楽しみだな。……軍に入れるつもりか?」
「いいえ。もう帝国ではありませんし、本人の希望に任せようと。ルディに似て、本を読むのが好きなので、もしかしたら官吏となるかもしれませんが……」
   ハインリヒは言いながら、グラスに口をつけた。もう本を読めるのか――と問うと、文字を追っているだけのようですが、と肩を竦めて言う。
「ルディがそうだったんです。父の書斎から小難しい本を引っ張り出してきては、解る文字だけを追って読んでいました。誰が教えたということもないのですが、ユーリも同じことをするんです」
   まるでルディが乗り移っているみたいですよ――と、ハインリヒは苦笑した。
「将来が楽しみだ」
「どうでしょう? そういうところがルディに似ているかと思えば、階段を駆け下りることも好きで、私の子供の頃の癖もよくやっていますよ」
   確かにフェルディナントと違い、ユーリは元気が良い。年上のウィリーやミリィと一緒になって走り回っている。

「そういえば、ウィリーも本が好きですね。ヴァロワ卿に似て」
「はじめは私の真似をしていたようだが、最近は大人しいから何をしているのかと思って見ると、本を読んでいることが多くなった。子供とは面白いものだな」
「そのうち、ヴァロワ卿と同じように本の虫になりますよ」
「そんなことになったら、本の重みで家が潰れるな」
   ハインリヒは笑って、それから傍と思い出したように言った。
「ああ、そうだ。ヴァロワ卿、一階の奥に書庫があるので、もし良かったら利用なさって下さい」
「此方にも書庫が?」
「ええ。父やルディの趣味が解る書棚になっていますよ」


[2010.10.31]
Back>>3<<Next
Galleryへ戻る