「随分若いな。未成年か?」
 彼は俺を見て問い掛けてくる。未成年に間違えられたことは心外だった。
「未成年ではありません。きちんと成人しています」
「君ぐらいの年の者が、こんな酒場に一人で来るには少し早いようにも思えるが」
 彼は店主から酒を受け取りながら言う。どう応えようか悩んでいると、店主が会話に入って来た。
「そう人のことを言えるかね。ジャン、君も随分早くからこの店に出入りしていたぞ」
「……そんなに早かったか?」
 彼は苦笑しながら、一口酒を飲んだ。店主は指を折って数え始める。そして頷きながら言った。
「うちに来て十数年の常連じゃないか」
「もうそんなに経つか」
「このところめっきり御無沙汰だったがね。忙しかったのかい」
「まあそんなところかな」
 店主はふと顔を上げて、店を出る客に挨拶をする。先程、店主が気を付けろと言っていた三人の男達だった。会計の段階で少し揉めていたが、店主は慣れた様子で精算を済まさせる。三人が出て行くと、隣に座った男は少し声を潜めて言った。
「下町のこういう店には、手癖の良くない奴等が来ることもある。気を付けることだ。狙われていたぞ」
「え……?」
「君みたいな身なりの良い者は格好の餌食だ。この町の住人とも思えないしな。士官学校の学生か?」
 ぴたりと言い当てられて思わず彼を見つめた。士官学校では決められた制服を着用しなければならないが、こうして町に出る時はラフな格好をして出掛ける。だから、誰にも気付かれていないと思っていた。
 俺はきっと酷く意外な顔をしていたのだろう。彼は愉快そうに笑って、すぐに解る、と言った。
「まあ、あまり士官学校の学生がこの町に来ることは無いがな。特に君のような上級士官コースの人間が」
「……何故、そうだと?」
「当たっていたか?」
 彼は笑いながら聞き返す。語るに落ちてしまうとはこういうことなのだ――と、この時はじめて知った。
「何となく上級士官コースのような感じがしただけだ。成人しているということは卒業前か。人脈作りに忙しい時期じゃないのか?」
 何故この人はこんなにもぴたりと言い当てるのか。否、内部のことにこんなに詳しいのか――。
「……軍の方ですか?」
「まあな。こんなところで野暮なことだから名乗らんぞ」
 彼はグラスの中身を飲み干すと、いつのまにか定位置に戻っていた店主に、もう一杯を所望した。そして空になりかけていた俺のグラスを見、好みはあるのかと問う。
「え? いいえ」
「ならばマスター、彼にギムレットを頼む」
 店主は微笑して、流れるような手捌きでシェイカーを使いギムレットを作ると、ジンを彼の前に、ギムレットを俺の前に置いた。一杯ぐらい付き合ってもらおう――彼はそう言いながらグラスを傾ける。
「ありがとうございます」
 礼を述べてから同じように酒を口にする。彼はそれを見遣ってから言った。
「人脈形成は嫌いか」
「……あまり好きではありません。挨拶のようなものだと皆言いますが、殊更上官の眼に止まるような行動を取る必要は無いと思っています」
「成程。しかし入省すれば人脈が物を言うことは確かだぞ」
「そういうことは軍に入省してからでも遅くないのではないかと思いますが……、違いますか?」
 相手が軍関係者ということもあり、あまり込み入ったことまで話すのは躊躇された。しかしそれが却って目上の人間に対して問い返すことになってしまった。咎められるかと思ったら、彼は愉快そうに笑い、そうだなと相槌を打った。
「君の言っていることは解る。皆、昇進を早めるために人脈を形成しているのだろう」
「……そのようです」
「本当にすべきことは軍の纏まりを乱さないことだがな。上級コース出身の者達はライバル意識が強くてなかなか連携が取れない。ま、部隊ごとに競争させるには良いが」

 面白い人だった。軍の内部についてこんなに率直に手厳しい意見を述べる人は、これまで見たことが無かった。教官達は学生達に対する指導は厳しくとも、軍はどれだけ素晴らしい組織かということを強調するだけで、その話は具体性に欠け、実態を語ろうとはしない。こういう人が上官だと気兼ねなく職務に励むことが出来るのに、と思った。海軍部なのか陸軍部なのか、問い掛けようとして止めた。彼が言っていたようにこんな場では野暮なことだった。

「軍人となるのを躊躇しているようにも見えるが、君は希望して軍人の道を進んだのだろう? 自分で決めた目標があるなら、それに向かって形振り構わず邁進するのも良いことだ」
「……そういう訳ではありません」
「……軍人志望ではなかったのか?」
 彼は意外そうな表情で俺を見た。軍人になりたいと思ったことはなかったと告げると、では何故士官学校に入ったのかと彼は問い掛けてきた。
「親に命じられるままに入学しました」
「……そうか。それなら俺と似ているな」
「え……?」
「親に命じられたということではないが、俺もその道しか選択の余地がなかった。合格した大学の学部が入学直前に閉鎖となってね。国立大学だったから授業料も無償だということで猛勉強して合格したのだが……。同じ条件で学生を続けるのなら士官学校へ転学しなければならなかった。それで士官学校に入って軍人になってしまったという訳だ」
 運が悪かったというのだろうか。しかし彼は気にしていない様子で此方を見て話を続けた。
「希望した進路を取ることは出来なかったが、軍の中でも俺に出来ることはある。君もそうしたことを探すか、それとも自分の本当にやりたかったことをすれば良い」
「やりたかったこと……」
「親の言いなりになることは無いさ。まだ若いんだ。やりたいこともやれず、うずうずしているよりは、反抗して自分の希望を遂げても良い」
「……でもそうすると皆が困ってしまうのです」
「優しい人間なのだな、君は。皆を困らせるぐらいなら、自分が犠牲になる、か」
「……そうしなければならないのだと解っていても、納得出来ない時があります」
「もうどちらかすっぱりと決めなければならない時だろう。どちらを選ぶことも間違った道ではないさ。ただ、一度決めたらやり通す覚悟はしなくてはな」

 その通りだ――と思う。俺とて一度は決めたことだった。士官学校に入ることに納得した。将来軍人となることを約束した。
 この人の言う通りだ。一度決めたことを、今更揺らがせてどうするのか――。

「……そうですね」
「俺もまだ人に説教出来る年では無いが……」
「いいえ。今の言葉で、忘れていたことを思い出しました。ありがとうございます」
俺は父上や母上、それにルディを失望させたくない。だから、自分の志望を諦めたのだった。一人で考え込んでいるとそのことを忘れてしまっていた。
「もう卒業が近いのだろう?」
「ええ。明日に最後の演習が……。あ……!」
 しまった――。
 話し込んでいて時計を見るのを忘れていた。
 時計の針は門限まであと二十分の時刻を指していた。此処からバスを使っても三十分はかかる。駄目だ、間に合わない――。
「門限か?」
「はい。話の途中ですみません。失礼します」
「あ、待て」
 立ち上がり一礼すると、彼は一緒に立ち上がった。寮の前まで送ってくれると言った。
「でも……」
「近道を知っている。俺も学校時代、よく此処に通ったからな。マスター、会計を頼む。彼の分も纏めて」
 結局、奢られてしまい、そればかりか彼の車で寮の前まで送ってくれることになった。
 彼は車に乗り込むと運転操作を自動にし、目的地をセットした。そして車は俺の知らない道を走り、寮の裏側に到着した。たった十五分しかかからなかった。此処が近道なんだ――と彼は悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。そのおかげで、門限には間に合うことが出来た。礼を述べると彼は早めの卒業祝いだと言って笑った。


 せめて名前を聞きたかったが、何も聞かないままに別れてしまった。店主はジャンと呼んでいたが、ファミリーネームまでは解らない。
 しかし入省したらまた会うこともあるだろう。


 入省したら――。
 ふと自然とその言葉が出て来て、苦笑した。自分の気の変わりようの早さに、自分自身が驚いた。またあの人と会えたら良いな、あんな人が上官であれば良いな――単純にももう期待が沸き上がっていた。


【END】


[2009.11.17]
Galleryへ戻る