出会い〜帝国暦267年12月



 帝国の軍務省には、海軍部と陸軍部の二つの部局がある。どちらに配属されるかは、士官学校を卒業して任命を受けるまで明らかにされない。また、配属に関して、個人の希望を聞かれることも無い。軍の上層部がその者の適性と軍の内情を鑑みて、それを決める。そのため、学生のうちは、どちらに所属することになっても良いように、陸戦の知識も海戦の知識も叩き込まれる。また、入省してからも暫くは二つの部局を渡り歩くことも珍しくない。

 士官学校の最終年度ともなると、同級生達は自分がどちらに所属することになるのかと騒ぎ始める。周囲が騒ぐなか、俺はあまり興味が無かった。どちらに配属されても同じことだと思っていた。同級生達は海軍部への所属を望む者が多かった。俺の所属していたのは上級コースだったから、海軍に入ればその年に一個艦隊を与えられることになる。軍人になるからには艦隊を指揮してみたい――そう考える学生が多く、皆、海軍への配属を望んでいた。

「ハインリヒは? 君もやっぱり海軍か?」
 卒業を間近に控え、それまで以上に周囲が慌ただしくなる。この日も講義を終えて寮に戻ろうとしたところ、隣の部屋の同級生が声をかけてきた。
「……俺は別にどちらでも良いな」
「ああ、君の場合、父上が陸軍大将だから陸軍に入ることにもメリットはあるのか」
「そんなことはないさ。俺の入省と同時に父は退官することになっている」
「まだ退官には早いんじゃないのか? ロートリンゲン大将閣下は」
「俺が入省したら自分の役目も終わりだと思っているようだ。だから陸軍に配属になろうが、海軍に配属となろうがメリットなんか無い」

 お前が入省したら私は退官する――と父上は俺が子供の頃から言っていた。邸でのんびり母上と過ごすらしい。また、士官学校にはジュニアスクール卒業と同時に入学する幼年コースが設置されている。その幼年コースから入学している者は、通常は四年の上級官吏コースを三年で卒業出来る。したがって、幼年コースから士官学校に籍を置いている俺は、ルディの大学卒業と同時に、軍に籍を置くことになる。
 ルディは官吏の試験を受けるつもりだと言っていた。父上は反対しなかったが、母上やミクラス夫人がその身体を案じた。心配する気持も解るが、このところルディの体調は頗る良いようだから、問題は無いだろう。それに官吏の試験も受かるに違いない。ルディは高校・大学と常に首席を保ってきたのだから。

「とはいえ、幼年コースから士官学校に居るのだし、旧領主層だから、お前の将来は約束されたようなものだろう」
「あまり興味は無いな」
「ハインリヒ?」
 出世などどうでも良かった。軍隊の規律は厳しくて息が詰まる。だが、父上の命令でもあったから士官学校に入学せざるを得なかった。本当はルディのように高校に行きたかったのに、俺にその選択の余地は無かった。

 もしルディの身体が丈夫だったら、希望通り高校に行くことが出来たのかもしれない、とは思う。だがそれは絶対に誰の前でも言えないことだった。ルディとて、自分が望んであのような身体になった訳ではないのだから。
 ルディは、俺が羨ましいと言う。俺は自分の希望する高校に通えたルディが羨ましかった。互いに無い物ねだりをしているようなものだが、俺はルディの方が恵まれているような気がしてならない。体調を崩し苦しそうな様子を何度も目の当たりにしているから、ルディの前で迂闊なことは言えないが――。

 勿論、俺自身もルディの虚弱体質は気の毒だと思う。子供の頃はまったくといって良いほど外で遊ぶことは出来なかったし、最近丈夫になってきたといっても季節の変わり目には必ず体調を崩して寝込む。
はじめ、父上や母上はルディのことを考えて、なるべく体力を使わないで済む芸術家としての途を用意しようとした。絵を描いてみてはどうかとはじめに言ったのは、母上だった。ロートリンゲン家は余った財力で芸術家の保護や育成にも携わっていたから、ルディのためにそうした道を整えてやることは難しいことではなかったのだろう。
 しかしルディは芸術よりも書物、特に政治向きのことに関心を寄せていった。高校に入る前から新聞は何紙も眼を通していたし、誰も手に取らないような小難しい本を好んで読んでいた。そうした本を読み始めると食事すら忘れて熱中するルディに、父上も母上も俺も呆れた。父上も母上もそうしたことをあまり歓迎しなかったが、ルディの好きにさせておいた。家のなかでルディが楽しめることといったらそれぐらいしか無かったから、仕方が無いと思ったのだろう。

 やがてルディが高校に行きたいと父上に申し出て、当初は周囲に迷惑がかかると反対していた父上も、熱心にせがむルディに折れて、それを許可した。自分で決めてやるからには懸命に取り組みなさい――父上がルディにそう言っていたのを覚えている。あの時のルディの喜びようといったら無かった。そしてルディは父上に言いつけられた通り、優秀な成績で入学し卒業した。その後の大学への進学も、父上は実にあっさりと許可した。

 羨ましかった。俺がどんなに高校に通いたいとせがんでも、父上は駄目だの一点張りで取り合ってもくれなかったのだから。
『お前はこの家の跡を継ぐ者。士官学校に行き、軍人とならなければならない』
士官学校の入学試験の時、白紙で提出しようかとも思った。だが、俺にはその勇気も無かった。そんなことをすれば、父上や母上が悲しむ。何よりもルディが自分のせいだと責任を感じることになる。ルディとはそういう人間だった。長男なのに済まない――と、いつも俺に言っていた。
 だから、きちんと試験を受けた。選考から落ちれば良い――と思ったが、幼い頃から父上の教育を受けてきたためだろう、その試験は俺にとっては簡単なことで殆ど何の徒労もなく合格してしまった。

 こうなったからには腹を括って軍人の道を進むしかない――そう考えて、士官学校での生活を楽しもうとした。実際、興味深い授業もあった。しかし、士官学校の学生とのやり取りは俺にとって楽しいものではなく、気疲れするものだった。
士官学校に入る前、普通のジュニアスクールに通っていた頃は沢山の友達が居た。今でも帝都に戻れば彼等と顔を合わせ楽しく語り合う。気心の知れた打ち解けあえる友人達だった。
 一方、士官学校の学生は違う。上昇志向が強く、ライバル意識もある。ロートリンゲン家の息子ということで、殊更にすり寄って来た同級生や上級生も居た。彼等の露骨な態度は好きになれず、また自分より下の者には眼もくれない上昇志向の強い同級生と話をしたい気分にもなれなかった。だから、士官学校の同級生のうちで気心の知れた者は居なかった。
 このなかにあっては、俺の価値観がおかしいのかと疑ってしまう。しかし一年に何度か与えられる休暇を利用して家に帰り、ルディに会うと、俺の価値観は間違っていないのだと再確認する。
『学校はどうだ?』
 父上や母上にそう尋ねられると、俺は決まって楽しいと応えた。皆を困らせたい訳ではなかったから、必然的にそう応えざるを得なかった。それに士官学校で陰惨な苛めに遭っている訳でもなかった。肌に合わない――単にそれだけのことだった。

 入学当初は一日中監視され規律に従うだけの息苦しい生活だったが、卒業を目前に控えると自由な時間を得られるようになった。尤もそれも週末の二時間程度であり、寮内で過ごす者も多かったが、俺は必ず外出した。
その様子を見た同級生が女でもいるのかと冷やかしてきたが、そんなものではない。ただこの閉塞された空間よりは少しでも解放感を味わいたかった。

 士官学校は帝都郊外にある。其処は軍関係の施設のある町の西側に位置しており、東側に行けば一般の人々の居住地がある。そのため、町の西側は軍事色が濃いが、東側は下町らしい活況を呈した町だった。
 同級生達がこの町に足を踏み入れることはまず無い。彼等は一般の人々を見下していたし、入省後の上司との円滑な関係を築くために早くから人脈形成に走る者が多かった。西側にもカフェやレストランがあり、彼等は其処で人脈を築く。俺はまったく興味が無かったうえに、そうした場所は息苦しさを感じるから近付くこともなかった。同級生達は俺のそんな態度を見ていて、旧領主層は良いよな――と囁いていた。何が良いものか。旧領主層でなければ、俺は普通に高校に通うことが出来た。

 東側には商店の建ち並ぶ一角に、古いバーがある。はじめは足を踏み入れて良いものかどうか悩んだが、カウンターの内側に居た老店主が迷っていた俺を見て、どうぞと扉を開けてくれた。その店には各国の酒が置いてあって、老店主はどの国のどの酒が美味いかとか、彼が嘗て行った国について色々と話してくれた。彼の見聞の幅は広く、それが俺の興味をそそった。酒を飲みながら話を聞いていると、その会話に他の客が混じってくる。楽しいひとときだった。

 この日も演習訓練を終えてからの自由時間に店に行った。この日は珍しく人の多い日だった。
「ロイ、今日は何にするかね?」
 店主は話を中断して俺の側に歩み寄り、そう尋ねた。俺はこの店でロイとしか名乗らなかった。店主もそれ以上のことを深く尋ねる人ではなかったから、気楽なものだった。
「店主のおすすめは?」
 そう尋ねると、彼は解ったと微笑んで頷いてから、徐に俺の耳に囁いた。奥に座っている男三人に気を付けなさい――彼はそう言った。確かに、風体の悪そうな男が三人、ちらちらと店内を窺っている。三人のうちの一人が、俺の方もちらと見た。スリグループかそれとも喧嘩でも吹っかけようとしているのだろうか。そうしたことに巻き込まれたくなかったから、視線を合わさないようにしておいた。

 店主は忙しそうで今日はあまり話をすることも出来なかったから、外の光景を見ながら暫くのんびり過ごすことにした。時折、話しかけてくる人と言葉を交わしながら、店主のおすすめの酒を飲む。彼は俺の好みを弁えていた。
 そうして二十分ぐらい過ごしていただろうか。カランコロンと扉が開いて、コートを羽織った長身の男が店に入ってきた。店主は嬉しそうな笑みを浮かべて久しぶりだと告げた。きっと馴染みの客なのだろう。
「珍しく満席だな。商売繁盛結構じゃないか」
「隣の地区が祭りでね。その恩恵を預かっているだけだよ。……ああ、ロイ。君の隣の席、構わないか?」
「ええ。どうぞ」
「ジャン、何にする?」
「そうだな。ドライ・ジンを頼む」
 ジャンと呼ばれた男は店主から予備の椅子を受け取ると、俺の隣にそれを置いて腰掛けた。
 まだ若い――30代ぐらいの男だった。


[2009.11.16]
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