共和国での常備軍会議から帰宅したその晩、急に寒気と嘔吐に見舞われた。眠ろうにも眠れず、挙げ句には頭痛まで引き起こした。
   こんなに体調の悪いことも珍しいことだった。ルディとは対照的に、俺は子供の頃から身体は丈夫で、風邪を引くこともなかった。

   ただ一度だけ――、士官学校の時にインフルエンザに罹ったことがある。今回もその時と同じような辛さだった。頭痛と吐き気でまったく寝付けない。何度も起きて手洗いに向かった。それに気付いたミクラス夫人が起きだしてきて、俺の変調に気付いた。風邪薬を飲んで横になったが、それすらもすぐに吐き出してしまい、水すらも受け付けない状態になってしまった。

   珍しく――それこそ、インフルエンザ以来の高熱を出した。夜中にも関わらず、トーレス医師に来て貰い、処置をしてもらったが、熱は朝になっても下がらなかった。初めて体調不良で休暇を取った。
   復職して国際会議に出た直後であるだけに、自分自身が情けなかった。体調管理を手抜かったのだろう。

   身体だけは丈夫なことが自慢だったのに、熱は高いまま、三日間下がらなかった。こんなことは初めてだったから、ミクラス夫人やフリッツが酷く心配した。突然の変調だったため、インフルエンザが疑われたが、トーレス医師の診察によればそうではなく、過労だということだった。暫くゆっくり休むよう、トーレス医師は言った。
   四日目の今日、漸く高熱が下がり始め、うとうとと眠っては起きるを繰り返していた。昨日はフェイからも連絡が入った。フェイらしくもなく用件も言わずに電話を切ったが、もう少し体調が良くなったら、俺からかけ直した方が良いだろう。

   微睡みのなかで、夢を見た。
   ルディが出て来た。リビングルームで話をしていたり、別邸で子供達に勉強を教えていたり、何気ない日常のルディの姿ばかり夢に見た。
   忙しいからと、企業パーティへの出席をルディに頼むことも多く、また書類もルディに頼ることが多かった。ルディは嫌な顔ひとつせず、手伝ってくれた。
   俺は、ルディに頼り切っていた。
   知らず知らずのうちに。
   父も忙しい中、一人で取り組んでいたいたのに、俺はずっと甘えていた。

   ルディが居なくなってから、それを身にしみて感じていた。職務を休んでいた間も、ロートリンゲン家の仕事はあって、それらに取り組むだけでかなりの時間を費やしてしまう。これまではルディが手伝ってくれたから、休む時間も充分に取れた。俺は甘えていたのだな――とその時になって気付かされた。
   気付くのがあまりに遅かった。
   手伝って貰うのを当然のように考えていた。

   考えてみれば、ルディは無理の出来る身体ではなかった。ここ数年、夏になると体調を崩して、本邸に滞在していた。それなのに、本邸に帰っている時はいつも俺の仕事を代わりに務めてくれた。俺はそれを当然のように考えていたではないか――。
   ルディをもっと労ってやれば、ルディが突然死に至ることはなかったのではないか。そんな気がしてならない。
   ルディの命を削ったのは俺ではないのか――と。


「ハインリヒ様。お加減は如何ですか?」
   茫と天井を見つめていた時、ミクラス夫人がやって来た。側に来て、額に手を置き、まだ少し熱いですね――と言う。
「大分良くなった。まさか……、体調を崩すとは思わなかったが」
「ハインリヒ様が士官学校生の時以来ですものね。あの時は御屋敷にフェルディナント様がいらっしゃるから、ハインリヒ様は入院なさって……」
「まったくだ……。あの時は演習に行った全員が集団感染して……。高い熱を出すのがこんなに辛いものだと初めて知った」

   寄港地にいた整備員の一人がインフルエンザを発症しており、またそれを知らずに作業をしていたのが原因だった。出航した後の艦内で、皆が次々にインフルエンザで倒れていった。その時の演習は途中で中断された。士官学校の近くにある軍の病院に全員が搬送され、一時は隔離された。その後、重症者以外は自宅療養を求められたのだが――。
   ルディには絶対にインフルエンザをうつしてはならない――とのことで、俺は第七病院に入院することになった。母は毎日見舞いに来てくれて、父も忙しいながらも合間を見計らって、何度か見舞いに来てくれた。そうして十日間、俺は病院で過ごした。辛かったのは熱の高かった二日間だけで、あとは風邪のような症状となり、完全に身体から菌が消滅するまで、病院で過ごしたというだけだが――。

「子供の頃から、ハインリヒ様は御丈夫でしたから。熱を出されたのもインフルエンザの時とまだお小さい頃に一度だけですよ」
「……小さい頃の時のことは全く憶えていないな」
「ハインリヒ様が二歳ぐらいの時のことですもの。あの時も大騒ぎでした。ハインリヒ様の風邪がフェルディナント様にうつってしまって……。だから、インフルエンザに罹った時もハインリヒ様を御屋敷にいれてはならないと奔走したのですよ」
   入院している時、母が俺に申し訳無さそうに言っていた。入院させてごめんなさいね、ルディにうつったら大変だから――と。確かに予防接種は必ず受けているとはいえ、万一にでもルディにうつったら重症化するのは眼に見えていた。

   母も父も、家の者達は皆、ルディの身体を気遣っていた。俺は――、おそらくさほど気に懸けていなかった。
「……ミクラス夫人。俺はもう少しルディを労ってやれば良かったと今になって思う」
「ハインリヒ様……?」
「ルディに頼りすぎていた。手に余ることはルディに押しつけて……、だからルディはあんな風に突然死を引き起こしたのかもしれない……」
「ハインリヒ様。それは違います。フェルディナント様の突然死はまったく兆候の無かったもの。突然の細胞壊死だったと、トーレス医師も言っていました。ですから、ハインリヒ様がそんな風に考えてはいけません」
「ミクラス夫人……」
「そんな風に考えて、心労を重ねてしまっては、フェルディナント様も御心配なさりますよ」
   ミクラス夫人はそっと俺の手を取った。熱のある身体には、ひんやりと冷たくて心地の良い手だった。
「……きっと今頃、天国で旦那様や奥様とお話をしているでしょう。ハインリヒ様がこんな風に寝込まれていることをお知りになったら、皆様が御心配します」
「……そうだな……」
「お早くお元気になってください」
「心配をかけて済まなかった。……ミクラス夫人は強いな」
   あれだけ意気消沈していたミクラス夫人が、いつのまにか、ルディの死を乗り越えたかのように見えた。
「ハインリヒ様がいらっしゃるからですよ」
「え……?」
「ハインリヒ様の行く末をきちんと見届けるまでは、哀しんでばかりはいられません」
   ミクラス夫人はそう言って微笑んでから、すこし休むよう促した。
   眼を閉じると、また眠気が襲ってくる。それに身を任せて、眠りについた。


[2010.10.11]
Back>>5<<Next
Galleryへ戻る