「いらっしゃい。ジャン、フィリーネ。首を長くして待っていたわ」
   翌朝、フィリーネの自宅を出立し、ナポリに向かった。アントン中将夫人の自宅に行くと、夫人は満面の笑みを浮かべて、迎えてくれた。
「義足にしたと聞いていたけれど、とてもそうとは思えないわね。まるで足が治ったみたい」
「自分の足とあまり変わりがないんですよ。感覚もありますし」
「手は治ったの?」
「手首は疾うに治りました。この通り、きちんと動きますよ」
   夫人に手首を動かしてみせると、フィリーネが浅はかにも動物の世話を引き受けるからよ――と苦言を漏らす。しかしすぐ後に夫人は言った。
「でも二人が出会う良いきっかけにはなったのね。きっとヴィクトルも天国で喜んでいるわ」
   夫人は私達のことを心から祝福してくれた。結婚式を6月に挙げることを伝え、参列してもらえるよう告げる。夫人は勿論――と快く頷いた。


   その後、夫人とフィリーネが台所に向かう。何気なく部屋を見渡すと、写真が飾ってあった。一枚はアントン中将が夫人と写っているもので、もう一枚はアントン中将と私、それに幼い頃のフィリーネが写ったものだった。
   こんな写真、いつ撮ったのだろうか――。全く覚えが無い。
「ジャン。驚いたでしょう」
   いつのまにか部屋に戻って来た夫人が、写真を眺めていた私を見て言った。
「アルバムのなかにしまってあった一枚なんだけどね。ヴィクトルがそれを眺めては言っていたのよ。フィリーネがもう少し大きければ、ジャンとの縁談を勧めたのにって」
「アントン中将が私とフィリーネを?」
「ええ。貴方がそのうち誰か素敵な女性と結婚するだろうってこの頃は思っていたから、ヴィクトルは残念がっていたわ。貴方のことをとても気に入っていたからね。……でも貴方がいつまで経っても結婚する気配も無い。そんな時にフィリーネが帝都に行きたいって言い出して……。フィリーネには言っていなかったんだけど、ヴィクトルは貴方と引き合わせるつもりだったのよ。だから近くにアパートを借りさせて……」
「……ということは、私はアントン中将の策に見事に嵌ったということですか」
   笑って告げると、夫人はきっとそうでしょう――と笑って応えた。
「フィリーネは周囲が大人ばかりのなかで育ったから甘えてばかりだけど、心根の優しい良い子だから……。ジャン、宜しく頼むわね」

   思い出した――。
   この写真、皆で写真を撮ろうとフィリーネが言い出して、撮影したものだった。
   写真のなかのフィリーネも満面の笑みを浮かべていた。そんなフィリーネを側に置いて、アントン中将も微笑んでいる。私は――。

「叔母さん、胡椒を切らしているみたいなんだけど……。ジャン、何を見ているの?」
   フィリーネが側にやって来て、私の手許の写真を見た。それを見て、フィリーネは驚き、こんな写真をいつ撮っていたの――と夫人に尋ねる。
「あら。写真を撮ろうって言ったのは貴方じゃない。ジャンが此処に来た記念にって。それも叔父さんとジャンの大切な話を中断させて」
   ああ――。
   そうだ。そうだった。会議後に語り合っている時に、フィリーネがやって来たのだった。
   フィリーネは肩を竦めて、そうだったかな、と呟いた。そして写真と私を見比べる。
「20年前だから、若いのは当然だぞ」
   先にそう言っておくと、フィリーネは悪戯っぽく笑って言った。
「あまり変わってないって思っただけよ」



   その後、アントン中将の墓に参ってから、帝都へと戻った。ちょうど同時期にフェルディナント達も旅行から帰ってきた。共和国と連邦を周遊してきた二人は、銘酒と評されていた酒を土産にと持って来てくれた。ハインリヒは明後日から出勤するらしい。そしてフェルディナントは私と同じ4月1日をもって宰相に復帰する。
「ヴァロワ卿、あちらの御両親の許可は得られました?」
   フェルディナントに問われ、ああ、と応えると、おめでとうございます――と祝福の言葉をかけてくれた。
「6月20日に式を挙げる。場所がリヨンなのだが、出席してもらえるか?」
「それは勿論、出席させていただきます。……ところで、もう日取りを決めたのですか」
「4月から当分は身動きが取れないし、かといって夏の長期休暇は演習と会議で潰れる。それに来月から結婚するまでの間は、彼女が実家に帰ることになっているんだ」
「……それでは当分会えないではないですか」
   ハインリヒが驚いて言う。苦笑して頷き返すと、同棲すれば良いのに、とハインリヒは言った。
「彼女の両親が許さなくてね。一緒に暮らすなら結婚しろ――と。それで挙式を早めたということもあるんだ」
「そうなると6月というのはちょうど良い時期ですね。予定は確り開けておきますよ」
「ありがとう。頼む」


   フィリーネは毎日私の家にやって来た。3月の残りの日々は、出掛けたり、家でのんびり過ごしたりして、二人の時間を楽しんだ。
   そして最終日、私はフィリーネを実家まで送り届けるつもりだったが、翌日の所信表明演説の打ち合わせがしたいと軍務省から連絡が入って、送ることが出来なくなった。
「済まない。送っていくと約束しておきながら……」
「良いの。気にしないで。此処まで送ってくれてありがとう」
   列車の到着時刻が迫っていた。毎日会っていたのに、暫く会えないとなると、やはり――寂しさを覚える。

「フィリーネ」
   フィリーネが顔を上げたところへ、口付けをする。
   結婚するまでは――と思い、私は彼女と口付けすらも交わしていなかった。
   これが――、彼女と初めての口付けだった。
「6月には必ず迎えに行く。待っていてくれ」
   フィリーネは眼を大きく見開いていた。その眼が次第に潤んでいき、口元に笑みを湛え、こくりと頷いた。

【End】


[2010.8.1]
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