「……何をなさっていたのですか?」
   第七病院に行く――否、舞い戻ると、担当医が失笑を堪えた様子で尋ねた。右腕は予想通りというか情けないことに――、骨折していた。医師は処置を施しながら、腕の具合が良くなるまで入院なさいますか――と問いかけた。
「いや。自宅に戻る」
「お一人暮らしと伺っています。足が不自由なうえに利き手までこの状態では、お辛いでしょう」
「足は慣れなくてはならないし、そもそもこの手の怪我も身体を支えきれなかったことが原因だ。多分これから日常的にこういうことが起こるだろう。慣れるためにも、早く今迄の生活に戻りたい」
「では……、せめて怪我が完治するまでの間、ハウスキーパーを雇うことをお勧めします。そうでなければ、またこうした怪我をしますよ」
   ハウスキーパーか……。
   確かに医師の勧める通りかもしれない。これでは食事の用意も洗濯も出来ない。
「そうだな……。少し考える」
「では痛み止めを処方しておきますから、暫くは安静になさっていてください」

   薬を貰ってから待合室に戻ると、アントン中将の姪のフィリーネ・ルブランが待っていた。先程まで私の担当医の側に居た看護師と話をしていた。いらっしゃいましたよ――と看護師が私を見て告げる。彼女は本当にすみません――とまた謝った。
「いや。もう大丈夫だから……」
「骨折なさったと伺いました。私が不用意に犬を放してしまったせいです……」
彼女は今にも泣きそうな顔をする。慌てて、大した傷ではないから――と返した。
「治療費は私が支払います。それから……」
「その必要は無いよ。犬が跳びかかったぐらいでこんな怪我をしたのは私の不注意だ。君が気にすることは何も無い」
   彼女を促して、兎も角も病院を去ることにした。看護師達がちらちらと此方を見ているのが気にかかったからだった。


   車のなかでも、彼女は元気の無い様子で俯いていた。本当に気にする必要は無いのに――。
「……私は犬にとびつかれる体質のようでね。アントン中将の愛犬にも同じような歓迎を受けた」
「ジャンに……?」
「ああ。ジャンは君の犬よりも大きいだろう?」
「ボリスは……、私の犬ではないんです。私が今、友人から預かっていて……」
「え、そうだったのか?」
「来週いっぱい預かってほしいって友人に言われて……。でもなかなか言うことを聞かなくて……」
「……慣れていないと、大きな犬を預かるのは大変だろう」
「犬を飼ったことが無かったから……、それこそ、叔父の家でジャンと遊んだことしかないんです。でも友人からの頼みを断れなくて」
   道理で、あの犬が彼女の言うことに従わなかった筈だ。
「でも本当にすみません。こんなことになってしまって……」
「だから君が謝ることは無いんだ」
   苦笑して告げたところで、家に到着する。車から降りる際、彼女は一足早く車から降りて、私の側にやって来た。手を貸してくれた。
「……ありがとう」
「あの、閣下。看護師さんからお一人暮らしと聞きました。もしお嫌でなければ、閣下の御怪我が治るまでの間、掃除や料理を手伝わせてもらっても良いですか……?」
「え? あ、いや。本当に君が気遣うことは何も無いんだ」
「……他人がお家に入るのはお嫌ですか?」
「いや、そうではなく……。その、君にも君の暮らしがあるだろう」
「その点なら大丈夫です。アパートは此処から近いですし、仕事も其処まで忙しくはありませんから」
「だ、だが……」
「そうさせてください。結局、治療費も払わせてもらえなかったのですから……。それに、そうでもしないと私の気も収まりません」
   お嫌でなければ、私の好きにさせてください――。
   そう言われて、どう断って良いかも解らず、返答に窮した。
「と、兎に角今日は帰りなさい。もうすぐ陽も暮れる。この界隈は長閑な住宅街だと言っても、今はこんな世情だ」
   彼女ははい、と素直に応えて、家の脇に繋いでいたボリスと共に帰っていった。送っていくと言ったが、彼女はいいえと言って、ボリスを引き連れ走って帰った。



   アントン中将の姪か――。
   アントン中将が可愛がっていたことを思い出した。アントン中将には子供が居ない。子供代わりに可愛がっていたのが、愛犬のジャンともう一人――、時折アントン家にやって来ていた彼女だった。

   フィリーネ・ルブラン――。
   あの当時、5歳だった筈だ。そうなると、今は24歳というところか。もう少し若いように見えた。

   しかしまさか、アントン中将の親戚がこの近くに住んでいるとは思わなかった。この近くのアパートに住んでいるといっていたが、この辺はアパートが少ない。一戸建てが多い地域だから――。
   何処だろう――と考えかけて、思考を止めた。私には関係の無いことだ。其処まで詮索してはならないような気がした。
   何よりも今は、私が早くこの足に慣れなくては――。
   これ以上、足は良くならないのだから片足で難無く移動出来るように慣れなければならない。





   寝室に伸びてくる陽の光によって眼が覚めた。
   身体が怠い。傷を負った肝臓の機能が回復仕切っていないためだと医師が言っていた。朝食を摂って薬を飲まなければならないが、あまり食欲も湧かない。もう少しこのまま休もうか――。

   だが折角家に戻って来たのだから、部屋を片付けたい。本も読みたい。
   身体に鞭打って起き上がる。腕を庇いながら着替えを済ませて、寝室を出る。階段を一段一段慎重に下りていく。
   台所に向かおうとした時、呼び鈴が鳴った。朝から誰だろう。
   まさか――。
   ゆっくりと方向転換して玄関に向かう。扉を開けて、其処に立っていたのは、フィリーネ・ルブランだった。
「おはようございます、閣下。朝食を作ってきたので、宜しかったら食べて下さい」
   フィリーネ・ルブランは紙袋を私の前に差し出した。驚いてどう応えて良いか考えていると、彼女はにっこり笑って言った。
「私、今から出勤なので夕方にまたお邪魔させて頂きます。その時、お掃除と夕食の準備をしますから、閣下はごゆっくり身体を休めて下さいね」
「昨日のことは本当に気にしなくて良いから……」
「いいえ。閣下こそ、何かご不便なことがあったら何でも仰って下さい。それでは失礼します」
   彼女はそう告げると、微笑みだけを残して足早に去っていく。塀が彼女の姿を隠し、彼女の姿がやがて見えなくなる。

   彼女が手渡した袋は意外に重かった。台所に移動し、袋の中身を出してみると、温かい箱があった。取り出してみると、焼き立てのキッシュパイが入っている。別の器には野菜とフルーツのミモザサラダ、それに焼き菓子があった。
   キッシュパイを見るのは久々だった。それも店で売られているものではなく、手作りのキッシュパイは何年ぶりだろう。
「ありがたく頂くか」
   温かなキッシュパイを眼の前にしたら、食欲が湧いてきた。珈琲を淹れて、久々にゆっくり食事を摂ろう――。
   彼女の作ってくれたキッシュパイは、懐かしい味がした。


[2010.6.14]
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