新たな一歩



   歩くこと、走ること――、片足が不自由で困るといったらそれぐらいだと思っていたのに――。
「やれやれ……。立っているのも億劫だな」
   杖の使い方にさえ慣れれば、重心の取り方も身につくようになると思うが――。


   家の中の空気を入れ換えようと窓を開ける。さあっと心地良い風が篭もった空気を入れ換えてくれる。ソファに腰を下ろして少し休むか。病院から帰ってくるだけで疲れてしまった――。
   だが、やはり自宅は良い――。

「……うん?」
   背後から気配がするような――。

   振り返ると、庭に犬が居た。白と黒の斑模様の大型犬――確か、ダルメシアンだったか。
「どうした? 迷い込んだのか?」
   その犬は私の方を凝と見た。声をかけると尻尾をぱたぱたと振る。
   何処かの飼い犬が塀を越えて迷い込んだのだろう。この辺りでは見ない犬だが――。
「待っていろ。今、外に出るから……」
   犬や猫は嫌いではない。どちらかといえば動物は好きで、この家を購入した時、犬を飼おうかと考えたぐらいだった。
「ボリス、何処に居るの? ボリス!」
   女性の声が聞こえてくる。迷い犬がぴくりと耳を動かして、ワンワンと鳴いた。この犬の飼い主が探しに来たのだろう。
「飼い主の所に帰らなくてはな」
   犬に声をかけ、窓から外に出ようとした時、不意にその犬が勢いよく前進して来た。
   跳びかかってくる――。
「ちょっと待……っ」
「ボリス!」
   間近で犬の声が聞こえたと同時に、犬が跳ねあがり、私の身体に体当たる。片足で身体を支えられず、バランスを失う。
   このままでは後頭部を強打すると思い、片手を付こうとした。

   が――。
「……っ!」
   右手を付いた瞬間、手首に激痛が走った。同時に銃弾を受けた右胸にも痛みが走る。
「大丈夫ですか!? ボリス、此方にいらっしゃい!!」
   私の身体に乗り、顔をぺろぺろと舐めていた犬が引き離される。
「大丈夫ですか? 御怪我は……!?」
   若い女性が覗き込んでいた。起き上がろうとしても、右手に力が入らない。
   まずい。手首を骨折したかもしれない――。
「手が……!」
   女性が右手の方を見て、驚いた声を出す。
   ゆっくりゆっくりと、左手を支えにして身体を起こした。右手を前に持って来ると、右手首が不自然に曲がっていた。触れるだけで痛みを発す。
「すぐに病院に……!」
「あ、いや……。大丈夫だ」
   迷い犬は小首を傾げながら、尻尾を振っていた。状況を何も解っていないのだろう。
   女性はそっと手を取る。手首に触れられ、思わず顔を顰めた。
「随分腫れています。病院に行きましょう」
   心配そうに告げる女性にもう一度大丈夫だと告げて、立ち上がる。ボリスという名の犬が、ワンと一声鳴いて、私の足にすり寄ってきた。どうやら人懐こい犬のようだ。私に跳びかかってきたのも遊んでほしくての行動だろう。
   注意しながら重心を少し変えつつ身体の向きを変え、犬の頭を撫でる。犬は嬉しそうにぱたぱたと尻尾を振った。
「あ……。足を……」
「怪我をしていてね。ちょうど今日、退院したばかりだったんだ」
「本当にすみません。ボリスが跳びかかって怪我を……」
「いや。本当に気にしないでくれ」
「ヴァロワ大将閣下、確かお車をお持ちですよね? 車はどちらに?」

   この女性――。
   何故、私のことを知っているのだろう?

「君は……、何故私のことを……?」
「あ……。私はフィリーネ・ルブランと申します。閣下には一度お会いしたことがありますが……、もう随分前のことですので、憶えてらっしゃいませんか?」
   フィリーネ・ルブラン?
   憶えが無いが――。
   フィリーネ……。ルブラン……。

「私、陸軍のナポリ支部長を務めていたヴィクトル・アントンの姪です」
「……アントン中将!?」
   驚いて聞き返すと、彼女は頷いた。

   そういえば――、アントン中将のナポリの自宅を伺った時、親戚の子を預かっていると言って女の子を抱いていたことがある。あれは何年前のことだっただろう。5歳ぐらいの女の子で――。
   それがこの女性だったのか。

「確か……アントン中将の家にお邪魔した折に……、親戚の子を預かっていると言っていた時の……」
「ええ。私、叔父の許に遊びに行っていたんです。閣下から自己紹介をしてもらいました」
「よく憶えているな。……そうか、アントン中将のご親戚か……。この近くに住んでいるとは思わなかった」
「ええ。実家はリヨンですが、私だけ帝都で一人暮らしを。ヴァロワ大将閣下の御自宅が近くにあるということは叔父から聞いていて知っていたのですが……。此方のお家だったとは思わず……」
   実家がリヨン――。
   そういえば、アントン中将がそんなことを言っていた。この子はジャンと同じリヨン生まれなんだ――と。
   それにしても、こんな偶然があるものなのか。

「そんなことよりも、先に病院へ行きましょう。車を……」
「え? ああ。一人で行くから大丈夫だ。君は犬を……」
   病院に行くのは明日で良い――と思っていたが、そうも言っていられなくなってきた。右手の痛みが激しくて、ずっと疼いている。このまま右手までもが使い物にならなくなっては困る。それにこの痛みや腫れ方から察して、きっと骨折だろうから、早めに診てもらった方が良い。
   たった一時間前に病院を辞してきて、またすぐに病院の世話になるのは気恥ずかしいが、仕方が無い。
「あの、私も付き添いますので、病院から戻ってくるまでの間、ボリスを此処に繋いでおいても良いですか?」


[2010.6.13]
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