皇帝が私を後継者に指名する。皇女マリの件があるにせよ、異例中の異例に違いない。
   確かに私は皇帝から特別の信頼を得ている。宰相に就任してからずっとそうだった。才があると称えられ、常に皇帝の側で執政を行ってきた。皇帝の意見を取り入れながらも、比較的自由に政治を行うことが出来た。

   何故、皇帝がこれほどまで私に信頼を置いているのか――、これまでも幾度となく疑問を抱いてきた。才覚のある者を登用し、重用する――この一言に尽きるのかもしれないと思っていた。
   私には自信があった。知識が豊富であることに自負があった。皆が遊んでいる間、私はずっと部屋で本を読み漁っていた。文学にはじまり、歴史、政治、経済……、分野は多岐に亘る。邸には書庫があり、特に戦術や戦略に関する書籍は事欠かなかった。それ以外にも、興味を持った本はすぐに取り寄せた。本を読むうえで、外国語の習得が必要な時はそれも学習した。自分の知らないことを、本を媒介して知ることが、楽しかった。
   それがいつしか私にとって私だけの財産となっていった。自信へと繋がっていった。体力では負けても、知識では負けるものか――。高校でも大学でも誰にも負けたくなかった。そして実際、常に首席であり続けた。外交官の登用試験でもそうだった。
   だから、皇帝が才覚のある者を重用するというのなら、私が重用されてもおかしいことではないと思っていた。むしろ、そうであるべきだと考えていた。
   だが――、本当にそれだけだろうか。私は皇帝にとって都合の良い駒となっていないだろうか――。


「フェルディナント様。まだお休みになられないのですか?」
   寝室の灯りが点いていることにミクラス夫人が気付いたのだろう。寝間着に上着を羽織った姿で部屋にやって来た。
「もうそろそろ休むよ」
   時刻は午前二時になろうかというところだった。そろそろ休まなければ明日に響く。しかし全くといって良いほど眠気は無かった。
「何をお考えなのですか?」
   ミクラス夫人は、穏やかな口調で尋ねてくる。ミクラス夫人には、私が悩んでいることなどお見通しなのだろう。
「……自分の行いが、今の事態を招いたのだと思うと、これまでの選択が全て間違っていたのかもしれないと思えてならない」
「……陛下が何か難題を?」
「どうしてそう思う?」
   何故、皇帝に絡むことだと解ったのかと思い問うと、夫人は苦笑して言った。
「フェルディナント様の頭を悩ませるといったら、陛下に関係することとしか思い当たりません。それ以外のことならば、いつもすぐに結論をお出しになっています」
「……言われてみればそうかもしれないな」
「私は政治のことは解りませんが、僭越ながら、ひとつだけ助言させて下さい。フェルディナント様も陛下もそれぞれお考えあってのことでしょう。ですが、この国の長は皇帝陛下。最終的にはフェルディナント様も陛下に従わねばなりません」
「……そうだな」
「そのなかで、フェルディナント様がお出来になることをなさいませ」
「陛下の御命令下で私の出来ることか……。皇帝という絶対的な存在がある以上、そうなるのだろうな」
   皇帝の最終決定には絶対に逆らうことが出来ない。考えてみれば、いつも歯痒い思いをするのはこの時だった。大体が此方の案を採用してくれるが、皇帝が一歩も譲らないこともある。思えば、それらの大部分が皇室に関わることではなかったか――。
「今は亡き旦那様も、フェルディナント様のようにお悩みになっていたことが御座いました」
「父上が?」
「今だからお話出来ますが、旦那様は御自身の御命とこのロートリンゲン家をかけて陛下に進言なさろうとしたことがあるのですよ。奥様やフリッツが何とか止めましたが……」
   どちらかといえば父は古い性質の人間だった。そんな父の姿しか見ていなかったから、皇帝の意に背くことなど無かったのだと思っていた。
「知らなかった……。父上は陛下に対して常に敬意を忘れてはならないといつも五月蠅かったから……」
「旦那様は間違ったことを間違ったまま見逃すことの出来ない御方でしたから。……そうそう、あの時は奥様がフェルディナント様とハインリヒ様のことを考えて下さいと旦那様に訴えられて、それで何とか思いとどまって頂いたのですよ」
「ロートリンゲン家の存続のため、ではなく?」
   家の存続のためにと言われれば、父は諦めるかもしれないと思うが。あの父が子供の名で思いとどまったと?
「いいえ。御子様方のため、進言を諦めたのです。その時のことはよく憶えています。ロートリンゲン家の存続のために陛下に逆らうのは止めるよう、フリッツは何度も言っていました。でも旦那様はこのような帝国での家名ならば要らないと仰って……」
「あの父上がそんなことを?」
「御子様方――フェルディナント様やハインリヒ様の教育に関しては厳しい御方でしたが、お二人のことを何よりも一番に考えてらっしゃいましたよ。お二人には絶対にそういう面を見せない御方でしたけどね」
   知らなかった――。
   古い思想に囚われた厳しい人だとずっと思っていた。あの父が皇帝に逆らおうとしたことがあるなど、想像すらしていなかった。
   父の意外な一面を知ったようで驚いた。私の知る父は何においても厳しくて、身体の丈夫でない私を厄介者扱いしているのだと思っていたが。
「フェルディナント様が宰相になった時、旦那様が仰っていました。フェルディナント様は人当たりが良くても意外に頑固だから、陛下に意見することがあるのではないか――と」
「私からみれば、父上がそこまで私に関心を持っていたとは思えないがな」
   記憶の糸を辿っても、父から優しい言葉をかけてもらったことは一度も無い。何かと注意ばかりで、体調を崩せばまたかと冷たい素振りをする、そんな記憶しかない。
「面と向かっては厳しいことしか仰らない御方でしたから。フェルディナント様の前でハインリヒ様の話をしても、ハインリヒ様の前でハインリヒ様の話をする訳ではありませんし……。あら、話し込んでしまいましたね。もうこんな時間ですから、早々にお休み下さい」
   ミクラス夫人は時計を見て言った。話がいつのまにか父の話となってしまったが、少し気が楽になったような感じもした。



   そして――、私自身の覚悟も決した。
   皇位継承の話が次に話題に上ったときには、それを引き受けよう。私が皇位を継承する時は、現皇帝が亡くなってからのことであり、その指示を仰がなくて済む。
   ならば皇帝となった時の権限でもって、この国の体制を変えよう。旧領主層を抑えなければこの国を変えることは出来ない。そしてそれが出来るのは、皇帝という絶対的な立場にある者だけだ。

   そして私が皇帝となれば――。
   特赦を出すことが出来る。現皇帝によって追放に処されたロイを再び帝国に呼び戻すことが出来る。

   無論、私の見通しは甘いのかもしれない。たとえ皇帝となっても様々な課題が山積することだろう。旧領主の特権を廃止することで、彼等の不満も募ることになる。
   それに現皇帝は健在であり、私が皇位継承権を得てもこの先数年は現皇帝の執政が続くだろう。私はその間に、共和制移行への土台を作っておく必要がある。

   そう考えると、少し先が見えたような――自分がやらなければならないことが解ったような気がした。


[2009.12.5]