一日一日と、ルディは少しずつ回復していった。家に戻ってきて、ベッドに横たわるルディを見た時にはかなり不安を抱いたものだが、一週間が過ぎ、二週間が過ぎて、手術の日も迫ってきていた。
   来週には手術が予定されている。医師もこの状態なら問題は無いと言っていた。あと一週間――。
   来週、手術を受けてそれを乗り越えれば、ルディの身体は元通りになる。術後のリハビリに時間がかかるかもしれないが、今のような不安を抱えることも無くなる。

   ルディの身を案じながら、毎日、この家から宮殿まで通っていた。帝国に戻って来た俺のことを、ヘルダーリン卿はじめ皆が驚いたが、快く迎えてくれた。俺はこれまでの経緯から、フェイと帝国軍務省の間を取り持つ役目を担っていた。
ヘルダーリン卿は、俺が戻ってきたのだから長官の地位を移譲すると言ったが、固辞した。旧領主層出身である俺が長官となると、対外的にも帝国は何も変わっていないのではないかという印象を与えてしまう。
   ルディもそう言っていたが、今後、旧領主層は一線から退くべきだろう。新たな帝国のために。

   今、宮殿の一角には共和国と連邦の臨時司令部が置かれていた。俺は連邦のその部屋に毎日赴いていた。其処で提示された案を軍務省はじめ各省の長官達に説明し、帝国に相応しい案をまとめていく。そして出来上がった案を今度は連合国軍側に提示する。
   会議続きの毎日だったが、それでも家で過ごす時間もきちんと確保した。一日に一度はルディの側で会話をするように心掛けた。なるべく定刻に帰り、どうしても作業しなければならない分は家に持ち帰る。そのため、就寝が二時三時となることもあった。


「……う……ん……?」
   部屋の外が慌ただしくて眼を開けた。もう起床時間なのだろうか――時計を見るとまだ午前五時を過ぎたところだった。いつも七時頃に起きるから、まだ少し早い。この慌ただしさはどうしたのだろう――。
   廊下に出ると、ミクラス夫人がフリッツに医師を呼ぶよう告げていたところだった。
   医師を呼ぶということは、ルディがどうかしたのか――。
「ミクラス夫人。ルディに何かあったのか?」
「急に高熱を出されたのです。お苦しそうで……」
   一気に眠気が覚めたようだった。ルディの身体は炎症のせいでずっと微熱が続いていた。その熱が急激に上がったら危険だ――と、トーレス医師が言っていた。

   すぐにルディの部屋へと向かうと、ベッドの上で、ルディは苦しげに蹲っていた。熱が上がるということは、心臓に負担がかかる。そのためなのだろう。酷く苦しんでいた。
「ルディ、すぐ医師が来るからな」
   ルディは返事も出来ず、呼吸をするのがやっとの状態だった。頬に触れると酷く熱く、全身を震わせている。
   昨日までは何とも無かったのに――。
   容態が安定していると安堵していたところなのに――。

   苦しむルディの隣で、医師を待つ時間は、酷く長く感じられた。トーレス医師はやって来るなりすぐにルディを診察した。薬が投与され、暫くすると、苦しそうなルディの表情が次第に和らいでいく。七時を過ぎた頃になって、ルディの熱は下がり始め、一息吐いた。
「ハインリヒ様。そろそろお時間では……」
「ああ」
   少し後ろ髪を引かれる思いがしたが、ミクラス夫人にルディのことを頼み、いつも通り出勤することにした。
「フリッツ。大丈夫だとは思うが、容態が急変したら知らせてくれ」
「解りました」
   フリッツに万一の時の連絡を念入りに頼んでから、家を出た。



   帝国は急速な変化を迎えつつあった。国名を直ちに変更することは出来ないが、最早この国は帝国ではなかった。そもそも皇帝が行方不明で、今回の侵略の責任も問えない。
   街では数回、暴動が起きた。いずれも旧領主層の邸宅が襲撃され、フォン・シェリング家には火が放たれた。すぐに消火されたものの、旧領主層に対する批判は日増しに強くなっていった。
   ルディには黙っていたが、つい先日まで、ロートリンゲン家にもマスコミが押し寄せ、宰相であるルディの責任を追求していた。国民の前に出て、説明する責任がある――と彼等は言い立てた。病床にあり、説明出来ないことを告げても、彼等はそれは言い逃れだと指摘する。ロートリンゲン家から宮殿に向かうのも、そうしたマスコミの波を押し寄せながらのことだった。
   マスコミの人間は、ルディが三ヶ月前に宰相の職を解かれ、アクィナス刑務所に居たことも知らない。そればかりか、俺が去年、海軍長官を解任されたことも知らない。全てを説明するには会見を開くしかないか――そう考えていた矢先、全世界に向けて、アンドリオティス長官が声明を発表した。

   彼は今回の戦争の経緯と帝国の内情を詳しく説明した。皇帝が侵略を企て、それを止めようとしたルディが解任されたうえ、投獄されていたこと、軍務省は二派に分裂し、侵略を止めようとした将官達は左遷となっていたこと――。
   連合国軍のアンドリオティス長官からの声明ということもあり、マスコミはそれをこぞって取り上げ、翌日からはロートリンゲン家に彼等が押し寄せることは無かった。そして同日、副宰相のオスヴァルトによって議会の権限の拡張が宣言され、それにより、暴動も沈静化した。

「あれはきっとムラト次官が時期を見計らっていたのだな」
   宮殿の一角に設置された連邦の臨時司令部で、アンドリオティス長官の声明を聞いた後、フェイが呟いた。
「……フェイ。お前がムラト次官を眼の敵のようにしているのは何故だ? あのムラト次官はそう悪い人間にも見えないが……」
「単なる性格の不一致だ。同じような戦法を使うから気に喰わん、それだけだ」
「……まるで子供だな」
「何、向こうも同じことを思っているだろうさ」
   フェイが言い捨てると、ワン大佐が笑いながら、所謂犬猿の仲という奴ですよ――と言った。
「それにフェイ次官とムラト次官が笑いながら握手をしている時は、それぞれ何か策略を廻らせている時ですからね」
「アジア連邦で一番注意すべきはあのムラト次官だからな」
   きっとムラト次官はフェイのことをそう思っているのだろう。似たような人間なのに、こうまで嫌い合うのは面白いことだった。
「ところでロイ、この混乱が片付いたら……」
   フェイが話を転じた時、胸元で携帯電話が鳴った。済まない、とフェイに言ってから部屋に片隅で通話ボタンを押す。フリッツからの電話だった。
   その瞬間、嫌な予感がした。
   まさかルディに何かあったのではないだろうな――。

「ハインリヒ様。すぐにお戻り下さい。フェルディナント様の御容態が急変し、大量に喀血なさって……」

   大量に喀血した――?
   フリッツの言葉にすぐに返事を返せなかった。不安で胸が大きく鼓動する。

「……解った……。すぐに戻る」

   声を絞り出して応えて、電話を切る。どうした、とフェイが尋ねて来た。
「兄の……容態が急変した。悪いが、すぐに屋敷に戻る」
   フェイの返事を聞くのと、部屋を出るのは同じタイミングだった。今日は休むべきだったか――。後悔しながら、宮殿の裏に迎えに来てくれたケスラーの車に乗り込んで、屋敷に戻った。


   ルディ――。
   何故、喀血という事態となったのか――。

「ハインリヒ様!」
   屋敷に戻ると、フリッツが階段から駆け下りてきた。
「今、フェルディナント様の脈拍が低下して……!」
   ルディの側にはトーレス医師とミクラス夫人が居た。熱が引いてからも、ルディの意識は戻らず、呼吸の浅い状態が続いていたらしい。そして突然、咳き込んで喀血したとのことだった。
「ルディ」
   手を握り、呼び掛けてみた。ルディ、ともう一度呼び掛ける。
   だがルディは眼を覚ますことなく、たた機械の力で胸を上下させていた。昨日までは顔色が少しずつ良くなっていったというのに、また一気に振り出しに戻ったかのように土気色で、生気が無い。
「ルディ……」


[2010.4.4]