国王の居住区と行政機関は、中庭を挟んで向かい側にある。
   軍部は国王に何かあればすぐ駆けつけられるように、入口のすぐ側に部屋が設けられている。二度ノックして扉を開ける。部屋に居た全員が立ち上がって敬礼をした。
「たった10日留守にしていただけなのに随分久しい感じがする」
   苦笑してそう告げながら、此方も敬礼を返す。10日は長いですよ――とハリム少将が言った。
「大将が長官となってから、10日も此処を空けたことがありませんでしたから」
   此処に居る将官達は士官学校の時分から先輩や後輩だった間柄の者ばかりで、気の置ける仲間達だった。
「そう言えばそうだな。ああ、そうだ。此方に私の荷物が届いていないか?」
「長官の執務室に運んでおきました」
「ありがとう。鞄の他に大きな袋があっただろう?」
「ええ。随分と大きな袋が」
「皆への土産だ。今、持ってくる」
   軍部の将官用のこの部屋の奥に、長官専用の執務室が設けられている。長官専用と言っても、普段は此方で皆と意見交換しながら執務を行うから、荷物置き場のようなものだった。扉を開けると机の側に鞄と袋が置いてある。それ以外は10日前のままだった。
「皆で分けてくれ」
   部屋に戻ってハリム少将に袋を渡し、それから一番奥の机に向かっているムラト大将の許へ向かう。
   この三つ年上のムラト大将こそ、人事委員会でこの俺を長官に推薦した人だった。まさか長官に指名されると思わなかったから、この時ほど驚いたことは無かった。俺としてはこの人が長官になるだろうと思っていたのだから。


『お前が適任だと思ったから推薦したまでのこと。俺も他の者達もサポートするから安心しろ』
   以前から、軍部は現体制の維持を望む守旧派と、共和制を望む若手の進歩派との対立があった。守旧派は壮年の軍人が多かったから、若手は長い間、粛正の憂き目にあった。功を重ねても進歩派に与する軍人は、昇進出来ないことも度々あった。
   しかし国王が共和制への積極的な意欲を示した時から、守旧派の力が増した。これまで憂き目にあっていた進歩派の面々が続々昇進を遂げた。俺もその一人だった。少将から中将へ昇進し、さらにその翌年に大将へと昇進した。
   そして、守旧派の頭目でもあった長官がその座を降り、新たな長官を選出する必要が生じた。新トルコ王国では各部の長官は各人事委員会での推薦によって指名される。進歩派の誰か――、俺の先輩に当たる誰かが長官となるだろうと思っていた。
   ところが委員会が終了して委員長に呼び出され、俺が推薦を受けたことを知らされた。


   以来、長官として軍部に所属しているが、以前と変わったことは責任を取る機会が増えたと言うことだろうか。次官のムラト大将は士官学校の先輩で、軍に入った当初、教育係を務めてくれた人だったから何かにつけて相談出来た。それに前言通り確りサポートしてくれた。困ることは何もなかった。
「留守中、お手数をかけました」
「水臭いことを言うな。帝国はどうだった?」
「賑やかで良いところでしたよ。それに海も見ることが出来た」
「生まれて初めての海だったか。確か」
「ええ。港町というのも初めてでしたよ。見たこともない物が溢れていました。尤もそうしたものは随分な高値でしたが」
「南方の物産は海を通してしか手に入らないからな。それだけ高く売れる」
「此方は如何でした?特に異常は無かったと、先程ラフィー准将から聞きましたが」
   ああ、と言いながらムラト大将は机の引き出しから数枚の書類を取り出す。
「外交部から極秘で書類が回って来た。仮に他国から侵略を受けたとしても、アジア連邦からの協力を仰げそうだ」
   手渡された書類には、会議で決められたことが箇条書きに記されていた。
   体制が移行している最中に侵略を受けてもアジア連邦が救援に駆けつけてくれるとある。軍備に必要な費用の大部分は此方が負担しなければならないが、それは想定内のものであるし、何よりも軍事力では北アメリカ合衆国に次ぐアジア連邦が軍を派遣してくれるとなると心強い。尤も新ローマ帝国に攻め込まれたら、アジア連邦と手を取り合っても適わないだろうが。
「此方の計画通りに事は進んでいるようですね」
「ああ。それから三枚目の書類に書いてあるが、この件で外交部の者と一緒に近々アジア連邦に赴くことになる。同盟の内容について詳細な協議に入るためにな。で、国際会議が再来週だっただろう?」
   今回の国際会議は各国の軍備についてのもので、軍に関する全権者として俺が出席する予定になっていた。
「……そうですね。アジア連邦との協議は私が赴きますので、国際会議への出席を頼めますか?」
「了解した。その方が良いだろう。その書類、読んだらサインを貰えるか。外交部に持って行かなくてはならない」
「解りました」
「緊急の書類はこれだけだ。これから3日間、休暇だろう?」
「ええ。久々に実家に帰ります」
「お前はいつも宿舎だからな。偶には家に帰ってのんびりするのも良いことだ」
   書類に全て眼を通してから最後にサインをする。それをムラト大将に渡すと、ムラト大将は早く帰れと手を振る。

   実家は王宮と同じく首都にあるが、少し離れた場所にあるため、王宮から眼と鼻の先にある宿舎を利用していた。何かあればすぐ駆けつけることが出来るし、生活にも不便は無い。だが、偶には実家に帰って祖父母の様子も見てこなければならない。



   それにしても、新ローマ帝国で出会った男のことがずっと頭から離れなかった。
   どんな素性の者かも解らないままだったが、自分で決めた信念を最後まで押し通すような、ひとつの筋を持った男だった。しかしその筋が、脆いようにも感じた。何かの刺激を受ければ、より研ぎ澄まされ強い柱のようになるだろうに、彼の何らかのしがらみがそれを脆くさせている。
   彼の考え方は新トルコ王国の進歩派に近い。それなのに自分の思想を弱めて絶対君主制に近付けようとするのは何故か。やはり帝国の民故か。
「ルディか……」
   王宮を出て歩きながらぽつりとその名を呟いてみる。
   ルディとしか彼は名乗らなかった。此方もレオンとしか名乗っていないのだから、それ以上聞き出すことは出来なかった。


[2009.8.25]