第2章 胎動する社会



   外は太陽がぎらぎらと大地を照りつけていた。
   王宮はその入口に大きな噴水があって、それが冷涼な風を運んでくれる。すれ違う人々が此方に気付くと軽く会釈する。彼等にそれを返して、さらに奥へと進む。庭に面した廊下を歩いていると、背後から呼び掛ける声が聞こえて振り返った。
「長官!お帰りでしたか」
   ラフィー准将だった。三つ年下で、今年准将に昇格したばかりの男だった。
「つい先刻帰国した。今から国王に帰還の報告に上がるところだ。此方は何も変わりなかったか?」
「ええ、何事も御座いません。国境警備隊が大犬に出くわしたことが話題になるほど、平穏でした」
「そうか。国王もお変わりなかったか?」
「先週末に少々体調を崩されましたが、もう回復なさっています。昨日は陽が落ちてから庭を散策なさっていましたから……」
「この暑さではお身体に堪えたのだろう。御無理のきくお身体ではないからな」
「ええ。ところで長官、御報告を終えたら今日はもうお帰りになられるのですか?」
「いや、執務室に寄っていく。土産も買ってきたから、執務室で待っていてくれ」
   ラフィー准将は嬉しそうに笑んで、敬礼してから先に執務室へと向かう。彼等から留守中の詳しい話を聞きたいところだが、まずは国王の許に報告に行かなければならない。その部屋の前まで来て、扉を軽く叩いた。

「レオン・アンドリオティス、帰還の御報告に参上しました」
   入りなさい、と中から穏やかな声が聞こえてくる。扉を開けて部屋の中に進むと、白い髭を蓄えた王が眼を細めて円座から立ち上がろうとした。
「陛下、どうぞそのままに。私がお側に寄らせていただきます」
「ありがとう」
   病み上がりのせいか、少し窶れて見える。国王に近付いて跪くと、国王は労いの言葉をかけ帰還を喜んでくれた。
「アンドリオティス卿、新ローマ帝国は如何であった?」
「私の赴いた町はいずれも活況を呈しておりました。私は初めて海を見、貿易港というものを見学しましたが、我が国の市場以上の盛況が窺えました」
「卿にとって一番の収穫は海ということかな」
「左様に御座いますが、海と同じくらい有意義なことも御座いました」
「もっと長く滞在していれば、卿はより多くのことを得てきただろう。出来れば内偵などという隠密の職務ではなく、留学という形で送り出したかった」
   新ローマ帝国を内偵してくること、それが今回の職務だった。この内偵の必要が生じた時、国王は良い返事をしなかった。新ローマ帝国とは形だけでも友好国である。内偵など放っては国交に差し障りが出る――と。
   だが、どうしても内偵の必要があった。新ローマ帝国がこの新トルコ国への侵略を画策しているという情報が入ってきたためだった。その真偽を探るために、新トルコ国と縁のある者達に密かに状況を聞かねばならなかった。はじめハリム少将が名乗りをあげてくれた。しかし、今回の任務はもしその目的が帝国に漏れた場合に生じる身の危険が高すぎる。そのため、誰かに命じるよりも自分自身が赴きたかった。
「出発前より陛下のお気持ちはありがたく頂きました。ですが内偵のことはお気になさいますな。今回の任務で得たことは王国のためにも、そして私自身にとっても貴重なものでした」
   新ローマ帝国では五人の男達から帝国内部のことを尋ねた。そのうちの一人、ギルバートは貿易商として宮殿に出入りしている者で、侵略の件について詳しく語ってくれた。
「まず新ローマ帝国の内情についてお話し申し上げます。帝国は世界中で最も広大な国家であり、人口の多い国です。これは侵略の結果ゆえのことですが、そのために帝国は人口が増加し、資源が不足気味です。後に詳しい資料を提出致します」
「人口に見合うだけの富が無いということか。それで侵略を画策していると?」
「侵略を画策しているのは軍の中の一部の人間だそうです。三名の名前が挙がりました。ですが、皇帝はじめ首脳部が侵略を認めていないとのこと。名の挙がった軍の三名はいずれも新ローマ国時代からの従者――つまり旧領主層であり、侵略によって富を奪うことに加えて、帝国の威信を示そうとしているようです。そしてその三名を現在の軍務省長官が抑えているとの情報も得ました」
「軍の上層でさえ侵略には反対ということか。帝国は確か陸軍と海軍とで長官が二名居るのだったな」
「はい。陸軍の長官はジャン・ヴァロワ大将。海軍の長官はハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン大将。ヴァロワ大将は平民ですが、ロートリンゲン大将は旧領主層のため、私は当初彼も侵略に賛成なのかと考えておりました。ですが旧領主層とはいえ侵略に関してはロートリンゲン大将も反対の意志を示しているようです」
   ロートリンゲン大将についてもっと情報を得たいと思い、ギルバートに頼んでみたが、危険すぎるといって断られた。ロートリンゲン大将は有能な男だ、周りを嗅ぎ回っていると知られればこの内偵のことも気付かれる――、彼はそう言っていた。
「ロートリンゲン家といえば初代から軍の大将を担っている家だ。確か現在のロートリンゲン大将は卿と同じぐらいの年齢だった筈……。勇猛果敢で武勲も名高いと聞いているが」
「ええ。ロートリンゲン大将は私より一つ下です。帝国は官吏登用の際、我が国と同じように試験があると聞きます。ロートリンゲン大将は随分優秀な成績だったとか。その後、いくつか功を立て、それが認められて大将となったと聞き及びます」
「才に加えて旧領主層でもあったから、若くとも異論は出なかったのであろう。……ああ、そうか。帝国の旧領主層にしては侵略に反対するのは珍しいと思ったら、ロートリンゲン大将は兄が宰相であったな」
「今回の内偵でも彼の宰相は高い評価が為されていました。才もあれば人望も厚い人物だと」
「彼の政策の数々から鑑みても、侵略に賛成する筈が無い。旧領主層の土地を返上するという思い切った策を講じた宰相だ。却って旧領主層からは疎まれているだろう」
「そのようです。ですが、旧領主層は帝国において一割にも当たりません。宰相を慕う人間の数の方が多く、情勢は圧倒的に宰相側に有利となっています。したがって宰相が現在の政策路線を変更しない限り、私は我が国への侵略は無いと考えます。」
「皇帝は宰相に信頼をおいていると聞く。皇帝が旧領主層と距離を置いている今は、我が国は安泰ということか」
「はい」
「では我が国が制度を変えるのは早い方が良いな」
   国王は安堵したような笑みを浮かべた。これで重責を下ろすことが出来る――と。
   帝国の動向を探る必要があった要因の一つはこのためだった。国王はもう高齢で、今となっては床に伏せることも多い。そして国王には後継者が居ない。国王夫妻には子供が恵まれず、また国王は後継者を指名するつもりもなかった。

『私は私の代で国王を永久に終わらせるつもりだ』
   一昨年のこと、議会のなかで後継者について質問が挙がった時、国王は静かな声で言った。
『私はそのための土台作りに努めてきた。議会の発足、選挙制度、国王の権限の制限……。国王という立場なくともこの国は成り立つことが出来る。したがって、数年の内に体制を移行させたいと考えている』
   この発言には議会に参加した者達全員が驚いたことであり、そしてこの件は内密に進めることとなった。君主制から共和制への移行には少なからず混乱が伴う。その時に他国から攻め込まれれば新トルコ王国のような小国はひとたまりも無い。
   共和制に反対する者も居た。今でもそうした声はある。だが国王の意志は固かった。そして土台作りに努めてきたという言葉には、国王の親族の一斉の継承権放棄も含まれていた。国王は誰に相談することもなく随分前から計画していたようだった。
   では具体的にいつから切り替えられるか――実行面での段階になって、新ローマ帝国が侵略の動きがあるとの噂が立てられた。はじめは共和制に反対する者達が根拠の無い噂を流しているのだろうと思っていた。それでもそうした噂がある以上、慎重に動かなければならなかった。そのため、帝国を内偵する必要が生じて、俺が帝国に赴いた。

「卿の話を聞いて安堵した。私はもう長くは無い。先日具合を悪くしてから身体が言うことを利かなくなっている。もっと早く進めておけば良かったとこのところよく考えていたことだ」
「気弱なことを仰いますな」
「私ももう良い年だ。この時代に生まれて老年と呼べる年まで生きられたことは、喜ぶべきことだ。しかし冥府に旅立つ前に、この国が変わる様を見届けたいものだがな」
   国王はそう言って微笑んだ。昨年から国王は度々体調を崩している。70歳を越え、体力的に限界に達しているのだろう。閣僚達が急がなければならないと焦る気持も納得出来る。
「アンドリオティス卿、任務御苦労だった。ゆっくり休みなさい」
「ありがたき御言葉、感謝致します」
   最敬礼して国王の御前を辞する。その足で軍部へと向かった。留守の間に起こったことを聞いて、それから帰宅することにした。


[2009.8.25]