空に〜新世界外伝

第1章 分岐点



   郵便の配達員がやって来る。窓からその姿を見ていると、家のポストに封書らしきものを投函している。
   そろそろ合否の通知が届く時期だから、今届いた封書がそうなのかもしれない。
   逸る気持ちを抑えながら、階段を下り、ポストへと向かう。自ずと鼓動が速まる。
   ポストの中に手を伸ばすと、封書が一枚入っていた。それを引っ張り出してみる。
   帝国大学の文字があった。

   合否の通知だ――。

   心臓の鼓動がさらに速まる。
   合格していたら、俺は帝国大学に進学することが出来る。文学部で思う存分、本を読むことが出来る。
   しかし不合格だったら、就職しなければならない。帝国大学文学部しか受験していない。それ以外の大学を受験するならば、工学部でなければ許さないと父に言われていた。工学への興味はまったく無かったから、受験もしなかった。したがって、受験に失敗したら就職の道しか残されていない。
   合格か不合格か――。
   俺の今後の人生を大きく左右することになる。
   そう考えると、なかなか開封することが出来なかった。


   そもそも、帝国で一番難易度の高い大学への受験を決めたのが、高校二年の終了時だった。家から近い市立のリヨン大学には文学部が設けられておらず、自分の求める学問は私立大学か帝国大学にしか無かった。私立大学は莫大な費用がかかるから、経営の傾いた家の事情を考えると受験したいとは言い出せなかった。そうなると、帝国大学しか残されていなかった。
   学校の成績は中より少し上といったところだった。だから、担任に帝国大学への進学を希望している旨を伝えた時、無謀だと言われた。帝国大学といえば、全世界を見渡しても最高位にある大学だった。
   無謀だと言われてから、必死に勉強した。何としても文学部に入学したかった。各国の原著を読み、深く追究してみたかった。
   必死の受験勉強が功を奏してか、試験の手応えはあった。試験を終えた直後こそ、合格したかもしれないと思ったものだが、日に日にそうした気持は薄れて不安を抱くようになっていた。

「ジャン。通知が届いたの?」
   封書を携えたままリビングに行くと、母がやって来て手許を覗き込んだ。まだ開けていないじゃない――そう言って、俺を急かした。
「この結果で全てが決まると思うとさ……」
「あら。合格したかもしれないと言っていたじゃない」
「母さんは俺があの帝国大学にたった一度の受験で合格出来ると思ってるの?」
「万が一、何か手違いが起こって合格通知が届くということもあるとは思ってるわよ」
   母は笑いながら、開けてみなさいよ――と言った。その様子から察して、まったく期待していないらしい。
   それに背を押される形で、丁寧に封筒を切った。中から数枚の紙が現れる。それらを引き出して開いてみた。

「……やった……」

   合格と、書面に綴られている。読み間違いでないか、もう一度はじめから眼を通してみる。

「……合格したの……?」

   母までそれを覗き込んだ。確かに合格と書かれてある。
   帝国大学文学部に、合格した――。

「やった……!」

   合格した――!
   喜びが一気にこみ上げてくる。これで帝国大学の学生となれる。思う存分、本を読むことが出来る――。
「父さんに報告してくる!」
   父は家の隣にある工場に居た。自動車部品を作る工場を経営しており、子供の頃は羽振りが良かったが、近年は大企業の経営におされて、経営が傾いていた。従業員数も減り、今はたった父を含めて三名でこの工場を稼働させている。
家の庭から塀を跳び越え、工場の敷地に入る。工場の中を駆けていると、いつも通りの厳しい声が響いてきた。
「ジャン! いつも言っているだろう! 工場内を走るな!」
「ごめん、ロロ小父さん! 急いでるんだ!」
   父はいつも工場の奥の機械の前に居る。其処を目指していると、背後から声が飛んで来た。
「ジャン。就職先でも決まったのかい?」
   機械音にさえ負けない大声で、トム小父さんが問い掛ける。ロロ小父さんもトム小父さんも俺が子供の頃からこの工場で働いており、此処から歩いて五分とかからない所に住んでいる。親戚のように付き合いの深い人達だった。
「進学先が決まったんだ!」
   二人にそう告げてから、父の居る機械の前へと向かう。
「父さん!」
   機械を動かしていた父はその手を止めて、どうした、と問い掛けた。
「合格したんだ! 帝国大学に!」
   父の前で書類を広げてみせる。父は眼を大きく見開いて、書面の文字を何度も確認するように見つめた。
「帝国大学なら許してくれるって約束だったよね!?」
「……文学なんぞ修めても、就職難の憂き目に遭うぞ」
「でも約束したよね!? 学費の殆どかからない帝国大学なら良いって!」
「……やれやれ。お前が何処かに就職して、漸く親の手が放れると思ったのになあ……」
   父は書類を手に持って、もう一度それを読んだ。
「ジャン。お前、あの帝国大学に合格したのか!?」
「おいおい、帝国大学って本当か!? フィリップ、これは大変なことだぞ!?」
   気付かなかったが、俺の背後にはロロ小父さんとトム小父さんが立っていた。父の持っている書類を交互に見て、本当に合格だ――と信じられないとでもいう風に驚く。
「まあ、約束は約束だな。四年間、仕送りしてやる。だが、きちんと勉強しろよ、ジャン」
「奨学金を取るよ。バイトもするし、それで足りない時だけ、仕送りを頼んで良いかな」
「学生の本分は勉強だ。バイトに明け暮れるために大学に入る訳じゃないだろう。それぐらい工面してやる」
   父の言葉は嬉しかった。一方、ロロ小父さんとトム小父さんは父を見遣って言った。
「フィリップ、この工場の後継ぎを手放してどうする!? 帝都なんぞに行ったら、戻って来ないぞ!?」
「何で、リヨン大学に行かなかったんだ!? ジャン! この工場を潰す気か!?」
   父よりも、従業員のこの二人に咎められるとは思わなかった。父は俺に書類を返しながら、二人の従業員を見て言った。
「元よりジャンにこの工場を継がせる気は無いよ。こんな小さな工場は需要が無くなっているからな。この工場は私の代でお仕舞いだ」
「フィリップ……」
「だが私が死ぬまでは廃業しないから二人とも安心してくれ」
   ここの従業員は皆、父より年上だった。特にロロ小父さんは祖父の代から勤めていると聞いている。
「三代続かなかったか……。この辺では一番古い工場なのになあ」
「仕方無い。小さな工場は皆、大企業に吸収され消えていく昨今だ。今迄残っただけでも良しとしなくてはな」
   父はそう言って、また機械を動かし始めた。


[2011.12.4]