はじまりの詩



   強い陽射しのなか、ウィリーは打ち寄せる波を楽しそうに追いかけている、そんな時のことだった。
「ノーマン・ザカ中将……か?」
   ナポリの海辺でそう呼び掛けられて驚いた。そしてその声は私自身も聞き覚えのある声で――。
「アントン中将……」
   何故こんなところにアントン中将が居るのか――そのことにまた驚いた。
「このようなところで会えるとは思わなかった。家族で来ているのか?」
「はい。休暇を利用してナポリに……。と、すみません。少々お待ち下さい」
   ウィリーから眼を放してしまったことに気付いて、慌てて辺りを見渡した。幸い、ウィリーは波打ち際に座り込んで、波に触れながら楽しんでいるところだった。
「ウィリー、此方においで」
   呼び掛けると、ウィリーは立ち上がって駆け寄って来る。
「失礼しました。眼を放すと何処かに行ってしまうので……」
「元気な証拠だ。そうか。君の子供はこんなに大きくなったのか」
   アントン中将は腰を屈めて、穏やかな笑みを浮かべ、いくつになったかな――とウィリーに問い掛けた。ウィリーが五歳ですと応えると、良い子だと、アントン中将は眼を細めながら頷いた。
「私も家族と来ていてね。姪にせがまれて此処に来たのだが……」
   アントン中将が軽く手を挙げる。其方を見遣ると、一人の少女が駆け寄っていた。アントン中将は彼女のことを姪と言っていた。
「叔父さん。何処に行ったのかと思って探したのよ」
「済まんな。知り合いを見かけて話をしていたところだ。フィリー、挨拶を」
   アントン中将の姪にしては随分年若いというよりも、まだ少女だった。フィリーネ・ルブランです、と彼女が挨拶をする。姓がアントンではないということは、アントン中将の奥方の親類だろうか。
「妻の妹の子でな。休暇になるとよくナポリに遊びに来てくれる」
「そうでしたか。それにしても、アントン中将もお変わりありませんね」
「いや、ここ数年で一気に老け込んでしまったよ。ザカ中将、君とは少し話をしたいと思っていた。フィリー、この子と遊んでいてくれるか? あまり遠くにいっては駄目だぞ」
   フィリーネという名のアントン中将の姪御はこくりと頷く。
「ウィリー、お姉さんの言うことをよく聞くんだぞ」
   ウィリーに言い聞かせてから、彼女にウィリーを任せた。彼女はウィリーの手を繋いで、波打ち際に向かっていった。
「ヴェネツィア支部長を務めているということは、ロートリンゲン大将……否、元帥から聞いている。四年前にヴェネツィア支部に異動したと」
「はい。ちょうど昇級の話がありまして、少将への昇級と同時に支部に異動しました」
「何故、本部から離れた?」
   アントン中将の声は怒気も含んでいた。話があると言われた時から、何となくそんな予感はしていた。当時、ロートリンゲン元帥にも随分絞られたことだった。
「君が昇級に眼が眩んだとも思えん。何故だ何故だと考えたが先程納得した。子供のためか」
   鋭い。
   流石はアントン中将というべきか。嘘は吐けない。
「……はい。本部では休暇も満足に取れません。ですから、本部から離れた支部への異動に応じました」
   アントン中将は苦々しく息を吐いた。子供達の方を一度見遣り、それからまた此方に向き直る。
「気持が解らないでもない。だがザカ中将、私は残念でならない。……君には本部で昇級してほしかった。その年に少将となれずとも、必ず昇級出来た筈だ」
   当時、少将の昇級を断ってでも本部に残るように――と元帥にも説得された。それでも私は支部への異動を希望した。ジャンのように独身ならまだしも、結婚し、子供も出来た身には本部の仕事は忙しすぎて、家庭のことが疎かになる。ウィリーが生まれた当初は、一番忙しい時期で、殆ど帰宅することも出来なかった。ウィリーが久々に帰宅した私を見て、見知らぬ人間が来たと泣く程に。
「期待を裏切る形となり、申し訳ありません」
アントン中将は子供達の方をまた見つめた。そしてそのまま言った。
「……とはいえ、過去のことをとやかくいっても詮無いことだと解っている。だが、一度はこうして会って詰らずに居られなかった」
「アントン中将……」
「さて……、君と話したいのは今後のことだ。本部の状況は君もよく知っているだろう」
今後のこととはどういうことだろう――思わずアントン中将を見返した。アントン中将はゆっくりと此方を振り返り、本部に戻らないか――と告げた。
「本部に……ですか……?」
「元帥が軍を去ってから、フォン・シェリング一派が我が者顔で牛耳っている。……が、元帥の子息が頭角を現しつつあることは君も知っているだろう。今年少将になったと聞いている」
「あ……。はい。何度か共に仕事をしましたが、優秀な人材でした」
「彼はいずれ長官となるだろう。それだけの器を持っていると私は見ている。そして海軍支部も良い人材が揃いつつあると聞いている。ザカ中将、君が本部に戻り、彼等を取り纏める役を担う気はないか?」
アントン中将とは陸軍に居た頃に、知り合った。上官と部下として、同じ仕事を携わったこともある。私が海軍に異動してからも、アントン中将は何かと声をかけてくれた。
アントン中将は、元々元帥の上官だったらしい。元帥が入省した当初に配属されたのがアントン中将の部隊だったと聞いている。それ以来、懇意にしているということだった。元帥もアントン中将も、軍のあり方を憂い、改革を唱えてきた人だった。だから、アントン中将の言葉の裏には、必ず元帥が居る。
「私には荷が重いのではないでしょうか」
「今の海軍内でこのようなことを頼めるのは君だけだ。本部に戻り、大将となれ、ザカ中将。……ジャンにもそろそろ発破を掛けようと考えていたところだ」
「気苦労が絶えないようですよ、ヴァロワ中将も」
「何、気苦労といってもジャンのことだから、のらりくらりと交わしている。そのせいか、上官には心底嫌われているようだがな。それでも仕事は人の二倍こなすから、本部から追い出そうにも誰も追い出せまい」
   随分な言われようだが、当たっている。流石はジャンの上官だった方というべきか。
「……が、なかなか昇級は難しいようだ。あちら側がジャンを徹底的に嫌っているからな。元帥が何度も大将へと推薦しているが……。もう少しジャンに協調性があればと思わずにはいられんよ」
「ヴァロワ中将自身が彼等のことを嫌っていますからね。協調性を求めても無理でしょう」
「君もそう言い切るな。元帥も私も、君達に期待しているのだぞ」
「アントン中将。私達に出来うる限りのことは務めるつもりです。ですが、私達の力では本部はなかなか変わらないでしょう。寧ろ、変えてくれる存在となるのではないかと思えるのは、元帥の御子息達です」
「だがまだ若い。如何に優秀とはいえ、二十代だ」
「おそらく最短で大将に上り詰めるでしょう。そして、長男の方も数年のうちには外務省の上層部に食い込む。これはヴァロワ中将とも話したことですが……、私達は彼等のサポートに回ろうと思っているのです」
   ノーマン、と妻のカレンの声が聞こえて振り返った。今、ホテルから此方に来たのだろう。
「まあ、閣下!」
   カレンは私の前に居るアントン中将に気付いて驚いた顔をした。アントン中将は元気そうだ――と穏やかな表情で告げる。妻のカレンは元々、軍本部で事務官を務めていたから、アントン中将のことも元帥のことも良く知っていた。ウィリーの誕生と共に軍を退職し、専業主婦となった。
「私の自宅はこの近くにある。折角、久々に会えたのだから、寄っていきなさい」
   一旦、ホテルに戻って着替えてから、アントン中将の自宅を訪問した。その頃には、ウィリーはアントン中将の姪御とすっかり仲良くなっていた。
それが、この夏の出来事だった。



[2011.10.15]
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