息吹



「おい、聞いたか? あの話」
「ああ。今朝聞いて、驚いたところだ。優秀だとは聞いていたが、無謀だろう」
   軍務局所属の将官達が囁き合うのが聞こえて来る。誰かの昇級の話だろう。他人の昇級話には、皆、驚くほど敏感だ。
「弟のロートリンゲン中将も平然としたものだ。昨日、海軍長官に呼び出されたようだが、事の真偽を問われたのかもな」
   弟のロートリンゲン中将?
   何故、此処でハインリヒの名前が出て来る? 話の流れから察して、彼等が話題に挙げているのはフェルディナントのことなのだろう。フェルディナントが無謀な行動を? 事の真偽とは一体何のことだ?
「しかし……、まだ25歳だぞ。将来の外務長官候補というのなら解るが……」
「ベーメル少将。一体何の話だ……?」
   単なる省内の昇級話ではなく、おまけにフェルディナントの名前が飛び出して来て、些か問わずにいられなかった。ベーメル少将は此方を見、ご存じないのですか――と眼を丸くして逆に問い返してきた。
「ヴァロワ中将とは仲が宜しいので、御存知かとばかり……。ロートリンゲン中将の兄が、宰相に立候補したとのことです」

   フェルディナントが宰相に立候補――!?
   驚きの余り、言葉が出なかった。
   フェルディナントが宰相に名乗りを挙げた?
   事実なのか。それとも噂が一人歩きしているのではないか――。

「有能とは聞いていますが、あまりに若すぎるでしょう。陛下もきっとお認めになりませんよ」
   確かに若すぎる。まだ25歳だ。経験が浅すぎる。
   だが――。
   フェルディナントにその能力があることは確かだ。若くとも、旧領主に偏らない公正な判断を下すだろう。それも解る。フェルディナントのことを知っていれば、適任だと頷ける。

   だが――。
   反発は強いだろう。先日、亡くなった宰相は73歳だった。大体、宰相となるのは旧領主家出身者であり、且つ各省の長官経験者だから――。
   宰相の人選を、皇帝中心に上層部が行っていることは知っていた。有力とされているのが、フェルゲンハウアー内務省長官だった。現在64歳で、旧領主家の人間でもある。
「立候補を表明したのが昨日と聞いています。噂では、外務長官が彼に立候補を取り下げるよう説得に回っているとか……」
「ヴァロワ中将。無駄話をする暇があったら、昨日の案件を提出してもらいたいものだな」
   軍務司令官がいつのまにか私の側に立っていた。彼は私を見下ろし、吐き捨てるように言った。
「若干25歳の若造が宰相となることなどありえん。有能だと周囲が褒め称えすぎたゆえに、本人が勘違いをしたのだろう」
   司令官はまだなおフェルディナントの誹謗を続けそうな雰囲気だったので、それを遮ることにした。
「昨日の案件なら、今から再提出するところでした。先程、閣下がいらっしゃらなかったので」
   立ち上がり、机の上に置いておいた書類を手に取って、司令官に手渡す。彼はふんと蔑むように鼻息を荒げてから、執務室に向かった。

   フェルディナントが宰相か――。
   元帥はそれを許したのだろうか。フェルディナントの身体のことを考えると、容易に許すことは無いと思うが――。



   この日、ハインリヒは軍務局に留まることは殆ど無かった。机に戻って来て、書類の整理をしていたかと思えば、局長に呼び出され、部屋を出て行く。話しかけたくともハインリヒにその暇も無かった。
   いずれ落ち着いてから真偽を確かめよう――そう思っていた矢先、資料室に行った帰りに、フェルディナントの姿を見つけた。失礼しました――と言って、会議室から一人で出て来たところだった。
「フェルディナント」
   声を掛けると、フェルディナントは此方を振り返る。そしていつも通り笑みを浮かべて、挨拶をする。
「何故、説得に応じないのだ。あの男は!」
   会議室の中から怒号が聞こえて来る。フェルディナントは其方を顧みて、それから苦笑を浮かべた。
   廊下には誰の姿も無かった。フェルディナントを促して、資料室のなかの奥へと進む。其処に人が来ることは滅多に無いから、落ち着いて仕事をしたい時にこっそりと使っていたスペースだった。
「お騒がせしてすみません」
「つい先刻、話を聞いて驚いたところだ。宰相に立候補したというのは本当なのだな?」
「はい。考えた末に、昨日、立候補を表明しました」
   周囲の反応とは対照的に、フェルディナント自身は非常に落ち着いていた。そのことは逆に現実味を帯びさせた。本気なのだろう。
「……こんなことを私が言うのは適当ではないが……、多くの人間を敵に回すことになるぞ」
「承知の上です。この帝国を変えたい――その一心で、覚悟を決めました」
「このままでもいずれは外務長官となる。それから宰相となっても遅くないと思うが……」
「ロイからも同じことを言われました。……でもそれでは遅いように思うのです。この帝国の体質を変えなければ、国際情勢に乗り遅れてしまう。そうなった時、この国は崩壊しかねません」
   相変わらず、さらりと大胆なことを言う。的を射ている発言ではあるが、そのために、フェルディナントは保守的な人間からは煙たがられる傾向がある。
「……元帥にも話したのだろう?」
「はい。自惚れるなと叱責されました。私一人が動いたところで、何も出来ない――と。確かにそうかもしれませんが、かといって静観していたら何も始まらないのではないかと私は思うのです」
   覚悟を決めたと言っていたが、本当にそのようだった。

   大したものだ――と、感心する。ただ黙っていても、ある程度の地位は約束されているだろう。それを捨てて、この国のための布石となるというのか――。

「ただ、ヴァロワ卿にはご迷惑をおかけしたくないので、何も言わず、静観なさっていて下さい。ロイにもそのように伝えました」
「フェルディナント……」
「不採用となった場合、私は事態を荒立てた責任を取って、辞職します。父にもそう告げました」
「フェルゲンハウアー内務長官が立候補を表明すると聞いている。旧領主家出身で、おまけに他の旧領主からの信望も厚い方だ。決して無能な人間でもない。手強いぞ」
「最大限に努力します。……それにフェルゲンハウアー内務長官が宰相となった場合は、私の意見など握りつぶされてしまうでしょう」
   今回、宰相が決まってしまえば、宰相は終身職と変わらないから、これから暫くは新しい宰相による執政が敷かれるだろう。勿論、上に皇帝が居るが、それでも宰相の権限は大きい。
   それに国際情勢を鑑みれば、この国の分が悪くなっていることは確かだ。民主制に移行する国々の多いなか、未だ旧領主と平民との間に大きな格差がある。さらに言えば、旧領主に逆らえば、平民はその権利を失ってしまうこともある。
   フェルディナントが危惧しているのはおそらくそのことに起因するものだろう。今、平民が立ち上がって内紛を起こせば、国際社会は平民に味方する。そうなったら、この国は、帝国は滅ぶのではないか――と。

「私はお前がどう考えているのかも理解しているつもりだ。そして官吏のなかでも、際立って民主的な思想を持っていると思っている。フェルゲンハウアー内務長官は対照的で、厳格な身分制を徹底させようとしているのも知っているからな。私はお前を支持する」
「ヴァロワ卿……」
「だが宰相となっても道は険しいぞ。300年近くこの国を蝕んでいる問題は、数年で解決出来るものでもない」
   そうですね――とフェルディナントは応える。それから私を見つめてヴァロワ卿、と呼び掛けた。
「宰相に採用されたら、力を貸して下さい。この国を変えるためにはまず軍を変えなければならないと私は考えています。そのために、ヴァロワ卿の力は不可欠なのです」
「私で良ければいくらでも」
「そのためにも今回は静観なさっていて下さい」
   フェルディナントはもう一度そう言った。


[2011.8.7]
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