風、そよぎて〜II



   海軍長官のディールス大将が宰相室にやって来た。彼はフォン・シェリング大将一派の人間で、単独でこの宰相室にやって来ることは珍しいこと――否、初めてのことだった。
   オスヴァルトが私の執務室にディールス大将を招き入れる。あと10分程でヴァロワ卿が、予算執行の件で此方に来ることになっていた。
「宰相。実は……」
   ディールス大将は胸元からそっと封書を出した。何だろう――と思ったのは一瞬のことで、それには辞職を申し出る文言が書かれていた。
「ディールス大将。これは……」
「どうか御受理下さい。私も苦渋の決断です」
   ディールス大将は深々と一礼する。


「まだ退官まで五年も残っているではないですか。……健康不良を理由になさっていますが、余程具合でもお悪いのですか?」
「医師からも心的ストレスだと診断されました。必要ならば診断書を添えます」
   ディールス大将は任期途中に申し訳ありません、と頭を下げる。確かに此処最近、疲弊しているように見えたが――。
「ディールス大将。フォン・シェリング大将との板挟みとなって苦しい立場であることは承知しています。いつもフォン・シェリング大将の顔色を窺っておいでだ。貴卿も長官となって6年が経ちます。そろそろ、御自身のお考えを全面に押し出しても宜しいのではないか」
   ディールス大将は酷く困った顔をした。どう回答して良いものか考えているようにも見える。

   ディールス大将は温厚な人物だった。温厚で、部下からも慕われているが、はっきりと自分の意見を主張する人物ではない。優しすぎて、利用される節がある。フォン・シェリング大将が彼を上手く操っているように。
「……宰相。自分の考えを明確に述べることが出来る人間は、この帝国にそう多くないのですよ」
   ディールス大将は静かにそう言った。
「宰相やロートリンゲン大将は、ロートリンゲン家という帝国でも有数の名家のご出身であって、その立場も確固たるものです。どのような発言をしようと、捻り潰されることは無いでしょう。また、ヴァロワ大将のような人間はそう多くありません。我が身の保身を思えば、何も言えなくなってしまう――それが普通の人間の心情というものです」
「私はたとえ自分がロートリンゲン家の出身でなくとも、発言すべきことは発言します。ヴァロワ大将のような方が少数派なのは、軍の一部の人間が己の利益を守るために、自由な発言を制限しているからでしょう。ディールス大将、長官という貴方の立場でそうした長年の悪習を絶ちきろうとお思いになりませんか」
「……悪習……かもしれませんが、軍務省はずっとそうして稼働してきたのです。それに宰相、私はフォン・シェリング大将にも恩義がある。裏切ることは出来ないのです」
   フォン・シェリング大将一派の問題は根が深いものだということは解っている。どうにかこの辺で断ち切って、本来のあるべき姿に戻したいものだが――。
「……ですが、この辞表は私の意志で提出するのです。まだフォン・シェリング大将には伝えていません」
「ディールス大将……」
「昨年、ヴァロワ大将が陸軍長官となり、陸軍は少しずつではありますが、変わり始めています。健全な方向に。それを見て、海軍も変化すべきだと私なりに考えた次第です」
「ならばディールス大将、貴方は長官としてその責務を……」
「私では駄目なのです。私にはそのような……ヴァロワ大将のような力は持っていません。それだけの意志も覚悟も無い。フォン・シェリング大将に逆らい、私が見放されるだけならばまだしも、家族に危害が加わってはなりません。私は何よりもそれを恐れているのです」
   ディールス大将の言う通り、辞職は苦渋の決断ということか――。
   どうやら意志は固い。

「そして気付いたのです。宰相の弟御、ロートリンゲン大将は先月で大将となり5年が経過していることを。私はフォン・シェリング大将の手前、彼を推薦することは出来ませんが、宰相やヴァロワ大将が……」
「お待ち下さい。私は公私混同するつもりはない。次の長官には長官に相応しい経歴と実績を備えた人物でなければならないと思っています」
「実績も何ら問題ありません。宰相、軍務省を変えようとお思いなら、ロートリンゲン大将を長官に任命することが一番の近道であることを、最後に海軍長官として申し上げます」
   ロイを海軍長官に――。
   これまで一度も考えていなかったことで、突然そのようなことを言われて戸惑った。ディールス大将の指摘通り、軍務省を変えるには一番の近道ではあるが、だが――。
「それでは宰相。これまでお世話になりました。今後のことは宜しくお願いします」
「ディールス大将! この辞表は一時お預かりします。もう暫くお考え下さらないか?」
   ディールス大将は申し訳ありません、と深々と一礼した。何をどう引き止めても無理だということだろう。
   ディールス大将が退室する。握り締めた辞表を、そっと机の上に置いた。


「閣下。ヴァロワ長官がいらしています。お通しして構いませんか?」
   ディールス大将が去ってすぐにオスヴァルトが尋ねに来た。ああ――と返事を返すと、ヴァロワ卿が書類を手に入室する。
「ディールス大将が此方に来るとは珍しいが……」
「ヴァロワ卿……。重大な問題が発生しました。ディールス大将が辞職願を……」
   机の上にある辞職願をヴァロワ卿に差し出す。ヴァロワ卿も些か驚いた様子だった。文言をさっと読み、それを折り畳んで元に戻してからひとつ息を吐く。
「……何となく予想は出来ていたがな。このところ、ディールス大将は欠勤が増えていた。それに私が着任してからずっと板挟み状態だっただろう」
「私はまさかこの時期にとは予想していませんでした。引き止めようにも、まったく耳を貸して下さらないですし……」
「ディールス大将は意地の悪い方ではないからな。温厚すぎて人と対決することが出来ない方だ。だからフォン・シェリング大将に利用されたのだろうし……。彼にしてみれば、フォン・シェリング大将との繋がりを断つためにも、辞職したのではないか?」
「……そのようです」
「ならば仕方あるまい。これ以上引き止めてもディールス大将を苦しめるだけだ」
   ヴァロワ卿はあっさりとそう言った。そういえば、ヴァロワ卿はずっとディールス大将は長官の器ではないと言っていた。
「後任人事の件は?」
「まだ考えていません」
「ならば、私が一人推薦したい。海軍長官に今一番相応しい人物だ」
「誰です?」
   興味が湧いた。人選に厳しく、また最適な人物を適所に配置するヴァロワ卿が推薦したいという人物は一体誰なのか――。
「ハインリヒだ」


[2011.3.19]
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