仲間
本部から今日付けで送付されてきた辞令を見て、言葉を失った。
何かの間違いだと思った。
名前をもう一度確認した。リーンハルト・ウールマン、宛名は一字一句間違ってはいない。
階級も大将となっている。所属先も間違っていない。ラッカ支部長リーンハルト・ウールマン大将宛の書面となっている。
本部が――、何か間違えたのか。俺ではない別の大将に宛てるべきものを、俺と間違えたのか。
……そんな馬鹿げたミスを犯した書類を、この南方のラッカ支部まで送ったのだろうか。
もう一度、新たな所属先を確認する。一字一字確りと。
軍務省参謀本部参謀本部長。
この俺が、参謀本部長?
莫迦な。これまで本部に所属したことさえない俺が、いきなり参謀本部長に抜擢されるなどあり得ないことだ――。
「失礼します。閣下」
書面を何度も確認していたところへ、副官の少将が入室する。彼の手には書類があった。決裁を求めに来たのだろう。辞令の件は、あとでもう少し考えよう――。
「予算の件か?」
近日中に支部内の予算を取りまとめて、本部に送付しなければならない。そのための書類だろうと思い、問い掛けると、彼は少し戸惑った様子でいいえと告げた。
「先程、本部から届いた辞令書のなかに私宛のものがありまして……」
「もしかして異動か?」
「いいえ。その、昇級試験を受けるようにと命令が……」
本部が昇級試験を受けるよう、支部の少将に命じた?
あり得ないことだ。支部内部のことまで、本部は口出ししないのが暗黙の了解事項なのに――。
少将は書類を此方に見せる。少将としての経験年数も実績も過不足無いから、昇級試験を受けるように――と確かに其処には書かれてあった。
そしてその命令は、俺の辞令と同様、このたび新しく就任した陸軍長官の名で発せられている。
「去年、閣下にも昇級を求められましたが、まさか……、閣下が本部に通達を?」
「いや。本部にまでは話していない。君が今のままが良いと辞退したからな」
アラゴン少将は優秀で、少将としての経験も充分に積んでいるから、中将の昇級試験を受けたらどうだ、その気があるなら推薦するぞ――と昨年、話をしたところだった。ところが、彼はこの支部の俺の副官として働きたいとの意向を示したため、そのままとなっていた。
「今度の長官は大幅な人事異動を行うつもりらしい。私にも異動命令が出た」
「閣下に……? ではこのラッカの支部長は……」
「別の誰かが派遣されて来るのだろう。こんなことなら、早々に君を中将にしておけば良かった。支部長を務めるのは中将以上と決まっているからな」
「閣下は今度はどちらに……?」
「まったく何かの間違いだと思うが……、本部に来いと命令が出た」
書面を少将に見せると、彼は眼を大きく見開いた。そして驚きを隠せない様子で此方を見る。
「何かの間違いに決まっている。俺は来月になっても動かんぞ」
「し、しかし……。本部からの命令ですし……」
「本部に一度も所属したことのない人間に、参謀本部長に就任しろと? 大方、他の大将と名前を間違えたのだろう」
こんな大幅な人事――、異を唱える者が多い筈だ。
新しい長官は一体何を考えている? この様子だと本部も相当、人員が入れ替わった筈だ。新しい長官の一派で上層部を牛耳るつもりなのだろう。今の長官が懇意にしている派閥は何処の派閥だ? 誰が何処に異動となった? この遠い支部では、それを知ることが出来ない。
否、今の長官はこれまで上層部を牛耳っていたフォン・シェリング大将とは対局の人物だ。だからこれだけ大幅な異動となったのか。
ジャン・ヴァロワ大将――。
三ヶ月前、彼が長官に就任した。彼が長官となるとは思わなかった。軍の大半の人間が、異例の抜擢に驚いただろう。
彼は確かに士官学校でも優秀で名が通っていたが――。
読書ばかりに明け暮れているような暗い男で、優秀であっても出世できない人間の代名詞だな――と皆が囁いていた。
そのヴァロワ大将が数年前から本部で功績を挙げていたことは知っているが、まさか長官に任命されると思わなかった。同じ部隊に所属したことは無いが、生真面目すぎて厄介な男――という評判だけは伝わっている。士官学校時代の姿は知っているが、誰かの輪に入るでもない、隅で一人読書を楽しんでいるような人間で――。
こいつは出世出来ないな――と俺自身、影ながら思っていたのに。
「……閣下。新しい長官とはどのような方なのですか?」
アラゴン少将が書類を此方に戻しながら尋ねて来る。こんな人事を行う人間だ。興味が湧いたのだろう。
「士官学校時代のこと以外は噂程度にしか知らんが……。学生時代は兎に角、暗い男だった。俺よりふたつ下だったが……、周囲からは浮いている存在だったな。ただ、優秀だったことは確かだ。首席ということを聞いたこともある」
「首席ですか……。もしかして相当な堅物です?」
「彼は卒業後、北部の支部に所属となって将官となってから本部に行った筈だ。俺はずっと南部支部だから接点は無いが、彼と関わったことのある人間は、生真面目すぎて厄介な男だと一様に言っているな」
「そんな方が今度の長官ですか……。これまでと正反対ですね。……では彼を支援している派閥は……?」
誰もがそれを知りたがる。俺自身もそのことが不思議で仕方が無い。あのヴァロワ大将は徒党を組むような人間では無いと思ったのだが――。
「噂でロートリンゲン元帥閣下と懇意にしていると聞いたことがある。長官となったのも元帥閣下が背後で動いたとしか思えんが……」
「ロートリンゲン元帥閣下ですか……。ではフォン・シェリング派閥とは距離を置くこととなりますね」
「あの男……あ、いや、長官がロートリンゲン元帥閣下に取り入るとも思えなかったのだが……。しかしこうして、長官となったということは取り入ったのだろうな。優秀な人間が処世術を身につけたということか」
「ロートリンゲン派閥となれば、今は力が強いでしょう。元帥閣下の長男が宰相ですし……。確か次男も次期海軍長官との噂が立っているではないですか。これからはロートリンゲンの時代ということでしょうね」
「そういうことなのだろうが……。まあ、上手く取り入ったのだろうな。長官も」
どんなに優秀でも、旧領主家の支援が無ければ、本部での昇格は難しい。それも長官となるということは、旧領主家に相当気に入られているということだ。ロートリンゲン元帥はあまり派閥を作らない方だったように記憶しているが、ヴァロワ大将のことを余程気に入ったのだろう。
尤も元帥は既に死去している。だから上層部が元帥との約束を反故にすることも出来ただろうに、ヴァロワ大将が長官となれたということは、元帥以外の誰かが力を貸したのか。
もしかして元帥の長男の宰相が――。
「ところで、昇級試験はどうする? 受けておいた方が良いぞ。もし俺が異動となっても、中将であれば君が此処の支部長となれる可能性がある」
「……もう少し考えてみます」
アルゴン少将がそう応えた時、扉を忙しなく叩く音が聞こえた。返事をするより先に、扉が開く。
「何だ。慌ただしい」
大佐が息せき切って現れる。慌てて敬礼をしたが、それすらも忘れかけたような様子で言った。
「大変です! 陸軍長官がいらっしゃいました!」
「は!?」
思わず声を返した。このラッカ支部に長官がやって来た――? この遠い南部の辺境域に?
何を考えているのだ、あの男は――。
「ウールマン大将閣下にお会いしたいとのこと、あの、此方にお通ししても宜しいですか?」
「応接室にお通ししろ。俺もすぐに行く」
大佐は敬礼の後、急いで退室した。アルゴン少将が言葉も出ない様子で此方を見つめていた。
「間違いに気付いて訂正に来たのかもな。君は仕事に戻っていてくれ」
そう告げてから、執務室を後にする。
だが、只ならぬことだとは解っていた。間違いの訂正なら、本部から書面を再発送すれば良いだけのことだ。長官がわざわざこうして来る必要など無い。
もしかして、本当に本部への引き抜きなのか――。
そうだとしたら、何故俺に?