幸せみつけた
この日、自宅に戻ると玄関で待ち受けていたのはフィリーネだけではなかった。
「あのね、ジャン。今日、友達の所に行ったらこの子が居てね。兄弟が5匹居るから、1匹引き取ってくれないって言われて……。それに可愛くて、私もついつい頷いちゃって……」
「……つまり、この犬を飼うと?」
フィリーネが抱いている小さな黒い犬は丸い眼で私を見つめ、ぱたぱたと尻尾を振っていた。まだ子犬――、しかも二ヶ月経ったか経っていないかぐらいの幼犬だった。
「……駄目?」
「駄目ということではないが……。その犬はラブラドール・レトリーバーだ。ボリスと同じぐらい大きくなるぞ」
「そんなに大きくなる犬なの!? こんなに小さいのに……」
「まだ生まれてまもないと言っていなかったか?」
「もう少しで二ヶ月だって……。でもね、とても人懐こくて可愛かったからつい……」
「犬を飼うのは構わないが、安請け合いをしては駄目だぞ」
フィリーネはどうも人が良すぎる。困っている人を見ると、何でも引き受けようとする。彼女の長所でもあるが、それは時に短所にもなる。
「ごめんなさい……。駄目だったら飼い主さんに返すから……」
フィリーネは捨てられた子犬のように悲しげな表情を浮かべる。飼っては駄目だとは言っていないではないか――。
「駄目だとは言っているのではないぞ。私も動物は好きだし、落ち着いたら何か動物を飼っても良いとは考えていた」
「……本当に?」
「ああ。……良い機会といえば、良い機会だ」
そう告げると、フィリーネはぱっと明るい顔をして、ありがとう、と言った。心無しか、子犬も嬉しそうに見える。
「名前は決めたのか?」
「まだなの。どんな名前が良いと思う?」
フィリーネが子犬を下ろすと、子犬はよちよちと歩き出す。そして私の足下にやって来て、すり寄る。
「……ああ、そうか」
黒色のラブラドール・レトリーバー。何か頭に引っかかると思っていたら――。
「どうしたの?」
「アントン中将の愛犬ジャンと同じなんだ。……気付いていなかったのか?」
私よりもジャンと触れ合った時間が長いだろうに、フィリーネは肩を竦めて言った。
「だって犬の種類ってよく解らないんだもの……」
フィリーネの返答に苦笑しながら、子犬を抱き上げる。子犬は眠そうに欠伸を漏らした。大きくなれば番犬にもなるだろう。
それに――、フィリーネが一目で気に入ったのも頷ける。ひとつひとつの動作が可愛らしい。フィリーネが顔を撫でると、子犬は幸せそうに眼を細める。
「ねえ、ジャン。名前、今思いついたんだけど……」
うつらうつらと私の腕のなかで眠り始めた子犬を見つめてから、フィリーネは顔を上げた。良い考えがあるかのように笑みを浮かべて。
「ヴィクトルってどう?」
それは――。
アントン中将の名前ではないか。
「……嘗ての上官を呼び捨てにするようで少し抵抗が……」
「あら。叔父さんはきっと気にしないわよ」
「……ならば、ヴィクターはどうだ?」
綴り方はヴィクトルと同じだが、ヴィクトルよりもヴィクターの方がまだ呼びやすい。そう思いついて提案すると、フィリーネは頷いて、子犬に向かって言った。
「今日から貴方はヴィクター・ヴァロワよ。宜しくね、ヴィクター」
ヴィクターは人懐こい子犬だった。ソファに座っていると、必ずよじ登って、隣にちょこんと座る。昼間にはフィリーネがお座りを教えてこんでいたからか、いつのまにかそれが出来るようになった。
「まあまあ、この子がヴィクターなのね」
アントン中将夫人の家に行くのは、結婚後から数えて二度目だった。一度目は式に出席してくれたことへの礼に、そして二度目にあたる今回は、私の休暇が取れたことで少し出掛けようということになって、その途中で夫人の家に立ち寄ることになった。
そして今回は、ヴィクターも一緒だった。夫人は子犬を見るなり、眼を細めた。フィリーネがヴィクターも連れて行くということを前もって報せていたらしい。
ヴィクターは犬好きの人間が解るようで、夫人の許に寄って千切れんばかりに尻尾を振っていた。
「ジャンの子犬の頃を思い出すわねえ。ちょうどこんな感じだったのよ」
夫人にも気に入られたヴィクターは、部屋のなかをちょこちょこと動き回る。夫人はその姿を、眼を細めて眺めていた。
「子犬も良いけど、早く子供が出来ると良いわねえ」
夫人の言葉に、飲んでいた珈琲を咽せ返しそうになる。フィリーネも顔を赤く染めた。
「あら。ジャンだって若くないのだから、早い方が良いわよ。気が早いけど、男の子と女の子両方が欲しいわね」
「叔母さん。本当に気が早いわよ……。結婚してまだ三ヶ月なのに……」
夫人は笑って、足下に来たヴィクターの頭を撫でた。
「私は子供に恵まれなかったから、せめて貴方達の子供の顔を見てから、ヴィクトルの所に行きたいわ。ジャンとフィリーネの子を見たわよって、自慢出来るもの」
「叔父さんのところに行くのはまだまだ早いわよ」
フィリーネの言葉に夫人は笑う。しかしフィリーネの言う通りだ。夫人はまだ健在ではないか。
「気が早いと言われるけど、実は夢を見たのよ。貴方達に子供が出来たという夢をね」
夫人は嬉しそうに語り始めた。夫人の夢のなかでは、一人目が男の子で二人目に女の子が生まれて、四人家族として幸せに暮らしていたとのことだった。
「素敵な夢だけど、なかなか子供に恵まれない人も多いから二人は難しいと思うわよ。でも子供が出来たら、叔母さんのところに遊びに来るからね」
フィリーネがそう言うと、夫人は嬉しそうに微笑んで、楽しみにしてますよ――と告げる。現在の出生率は極めて低いから、二人も恵まれることは滅多に無いだろう。特に私はもう中年なのだから――。
そう思っていた矢先のこと――。
それは、ナポリのアントン中将夫人の家を来訪した翌々週だった。
「フィリーネ!」
国際会議で家を留守にした時、フィリーネから連絡が入った。フィリーネは先週から風邪気味だったため、その日は病院へ行くと言っていた。晩に電話をいれよう――と思っていたところ、会議がちょうど終わった時に、携帯電話に連絡が入った。
子供が出来た、と。
国際会議を終えて、帰還の途に着き、ウールマン卿に報告を終えてそのまま帰宅した。お帰りなさい、ジャン――と、フィリーネはいつもと変わらず迎えに出てくれた。ヴィクターも共に。
「……身体は大丈夫か?」
こんな時、どう言って良いのかも解らなかった。フィリーネは笑みを浮かべて、大丈夫よ、と応えた。
「まさかこんなに早く子供が出来ると思わなかったけどね」
フィリーネはそう言って笑う。私も驚いた。まだ結婚して一年も経っていないのだから。
「叔母さんにも連絡したのだけど、ほらやっぱりって言ってたわ。私の予想は外れなかったでしょうって自信たっぷりに」
「しかし夫人の言う通りだ。夢で見たとはなあ……」
「……もしかしたら本当に二人目も出来るかもね」
足を懸命によじ登ろうとするヴィクターを抱き上げる。急に家族が増えるようなそんな気がしていた。去年は私一人だったのに、今はフィリーネを妻として迎え、先月にはヴィクターを家族の一員に加えた。さらに来年には、子供が誕生する。
この私が、人の親となる。
不思議な――気分だった。
「風邪だと思ってたから、妊娠と聞いて驚いて、性別もまだ聞いていないの。それでね……」
フィリーネの話を聞きながら、膝の上で満足げに座るヴィクターに触れる。
来年にはこの部屋にもう一人迎えるのだな――そんなことを考えていると、じわりじわりと実感のようなものがこみ上げてきた。
【End】