ひとときの安息



「御無沙汰しております。アントン中将」
   アントン中将の家に足を運ぶのは、今回で二度目になる。
   帝都から列車で三時間走らせたナポリの町の、閑静な住宅街にアントン中将の家がある。決して大きな家ではないが、手入れの行き届いている家で、庭には夫人の好きな薔薇が咲き誇っている。
「元気そうで何よりだ。さあ、上がりなさい」
   アントン中将は暖かく出迎えてくれた。夫人も同様ににこやかに微笑む。その言葉に甘えて玄関の扉から中に入ると、アントン中将の愛犬が飛びついてきた。
「元気そうだな。ジャン」
   俺がそう声をかけると、アントン中将の愛犬のジャンは嬉しそうに尻尾を振る。三年前に一度来訪しただけなのに、ジャンは確り俺のことを憶えていたようだった。
「ジャンもジャンに会えて喜んでいるようだな」
   アントン中将は笑って愛犬のジャンを呼び寄せる。愛犬ジャンはそれに従い、アントン中将の傍らに寄り添った。

   アントン中将の愛犬と俺は、奇しくも同じ名前だった。愛犬ジャンは毛の短く黒いラブラドール・レトリーバーで、アントン中将の許に10年前にやって来たらしい。夫妻には子供がおらず、この愛犬が子供代わりとなっているのだと、以前、この家を訪れた時に聞いた。
『君の配属が私の部隊に決まった時、同じ名前だったから興味が湧いたんだ。その興味に違わぬ人材だったがな』
   それに人の選り好みが激しいところはそっくりだ――と、アントン中将はよく言う。愛犬ジャンは夫妻に非常に可愛がられていた。そのためか、主人に忠実な犬だった。今もアントン中将の脇に腰を下ろして、ぱたぱたと尻尾を振っている。

「それにしても珍しいな、ジャン。休日となると読書に明け暮れる君がこのナポリまで来てくれるとは」
「御報告があって参りました」
「ほう。ついに結婚か?」
「まあ、本当に?」
   アントン中将の悪乗りに、夫人が身を乗り出して尋ねて来る。
「いえ、あの……結婚ではなくて……」
「ジャン。そろそろ伴侶を見つけろと以前にも言っただろう。情けない」
   そうだ。以前にも同じことを言われた。アントン中将も夫人もこの手の話題には五月蠅くて、特に夫人は少々世話焼きなところがあって――。
「そうですよ。早く家庭をお持ちなさい。貴方がその気になれば必ず……」
   悪い人ではないのだが、こういう話題は疲れる。まだ結婚する気が無いだけだ。それに四六時中、仕事に明け暮れているのだし、おまけに軍務省には女性が極めて少ないという状況のなか、出会いも何もあったものではない。
「それでは報告とは?」
「先月付けで、少将に昇級しました。同時に、これまでの総務課から兵務課に異動となりました」
   予想していた通り、アントン中将は驚いた様子で眼を見開いた。それから頬を緩ませて、それは良かった――と俺を見て言った。
「昇級試験の際、ロートリンゲン大将閣下が推薦人となって下さいました。実は去年、大将閣下と国際会議に向かう専用機のなかで言葉を交わしまして……。それ以来、大将閣下が何かと面倒を見て下さいます」
「そうか。彼は軍の中でも大物だ。彼に気に入られたのなら、今後の昇級も問題無いだろう」
「アントン中将。大将閣下がアントン中将から私のことを聞いていたと仰っていましたが、もしかしてアントン中将は私の昇級のために……」
   アントン中将は愛犬ジャンの頭を軽く撫でる。ジャンがぺろりとその手を舐めた。
「ああ、君のことは以前、ロートリンゲン大将の邸にお邪魔した時に紹介しておいた。陸軍に面白い男が居る――とな」
「……大将閣下もそう仰っていました」
「きっと大将のお眼鏡に叶ったのだろう。……そうか、去年会ったのか」
「移動中の機内で会議用の資料を訳していたところ、声をかけられまして……。その時、大将閣下が資料を貸して下さいました。そればかりか、それ以後の会議用の資料は大将閣下の御厚意で、外務省から直接、私に届けられるようになりました」
「やれやれ……。本部の連中はまだそんな下らぬ嫌がらせをしているのか」
   アントン中将は肩を竦めて言う。苦笑を返すと、ジャンもジャンだ、とアントン中将は言った。
「少しは上官と上手く付き合わんか」
「どうも下手なもので……」
「選り好みが激しいのだと言っているだろう。もっと世の中を上手く渡っていたら、疾うに大将になっている筈だ」
「この年で少将になれれば充分ですよ」
   アントン中将はあからさまに溜息を吐く。その隣で夫人が笑いながら、テーブルの中央に置いたケーキを取り分けてくれた。
「しかし、ロートリンゲン大将が推薦して下さったということは、お気に召したということなのだろう。あの方も眼の肥えた方だからな」
   アントン中将は満足そうに頷いた。珈琲を一口飲んで、ケーキに手を伸ばす。
「アントン中将は大将閣下の部隊に所属なさっていたと聞きました」
「ああ。もう随分前のことだ。ロートリンゲン大将が大将に昇格した翌年だったか……。部隊の参謀として引き抜かれてな」
   その頃を懐かしむかのように、アントン中将は笑みを浮かべた。
「ロートリンゲン大将は優秀で勉強熱心な方だった。そして曲がったことが嫌いな方でな」
   アントン中将は、ロートリンゲン大将の部隊に三年間務めたらしい。その後、ロートリンゲン大将は軍務局に所属することになり、同時にアントン中将は支部に異動した。
   ロートリンゲン大将は軍務局参事官の傍ら、特務派司令官も兼任していた。ロートリンゲン大将の部隊はこの特務派に吸収されたのだが、その際、アントン中将に昇級と特務派司令官の話が持ちかかったらしい。だがアントン中将は支部への異動を願い出た。
「君にも解るだろうが、本部は派閥の抗争が激しい。フォン・シェリング大将はロートリンゲン大将を眼の敵にしていたせいもあるのだが……。その頃はロートリンゲン大将がまだ若かったから、フォン・シェリング大将の力が強くてな。……ああ、今のフォン・シェリング大将の父親のことだ」
「……フォン・シェリング家とロートリンゲン家は仲が悪いのですか?」
「ロートリンゲン家の先代が在籍していた頃はそんなことは無かったのだが……。噂では、縁談で仲を拗らせたとも聞いている」
「縁談……ですか?」
「真相は知らんぞ。だが、フォン・シェリング家は長女をロートリンゲン大将の許に嫁がせたかったが、ロートリンゲン家がそれを断ったとか……」
   確かにそんな話を聞いた後から、仲が悪くなったからな――とアントン中将は呟くように言った。
「フォン・シェリング家もロートリンゲン家も帝国では1、2を争う名家で、そのふたつの家が結びついたら、軍務省では権力が集中してしまうことになる。ロートリンゲン大将はもしかしたらそれを考慮したのかもしれんが……」
   ロートリンゲン大将なら、確かにそうしたことも考えるかもしれない――そう思えた。
「あとまあ、自分の娘を差し置いて、旧領主家出身ではない女性と結婚したことに腹を立てているという噂もある」
「……大将閣下の御夫人は旧領主家のご出身ではなかったのですか?」
「いや、一般人だ。私達も結婚式に呼ばれたが、それは綺麗な女性でな。ロートリンゲン大将は妻まで一級の美術品を選んだ――と当時は噂になったものだ」
   愛妻家だという話は聞いたことがあったが、その話は初めて聞いた。そうなると、やはり縁談話から拗れて仲が悪くなったということか。まあ、俺には関係の無いことだが――。
「ジャン。君ももう解っているだろうが、ロートリンゲン大将はフォン・シェリング大将と……、否、これまでの軍の上層部の人間と一線を画する人物だ。敵も多いが、慕う人間も多い。……実を言えば、私には自信があった。ロートリンゲン大将が君のことを知れば、必ず後ろ盾になってくれるとな」
「アントン中将……」
「これからの軍は君のような人間が指揮していく方が良い。一部の軍人達の機嫌取りばかりに気を取られることなく、忠実に執務をこなして実績を積み上げる君のような人物がな。ロートリンゲン大将もそうお考えだ」
   アントン中将は微笑みながら、愛犬ジャンの頭を撫でる。ジャンは主人であるアントン中将を見上げ、嬉しそうな表情を浮かべていた。
「ロートリンゲン大将御自身も軍を変えようとしたのだが、猛烈な反対にあってそれを成し遂げられなかった。だが、彼が育てた人材達が居る。ジャン、君が上層部に名を連ねる頃には今と情勢が大分変わっている筈だ」
「ですが私のような人間が、ロートリンゲン大将の御意志に添えるかどうか……」
「期待したからこそ、君を昇級させたんだ。ジャン、誤解をしているようだが、ロートリンゲン大将は見込みの無い人間を昇格させはせんぞ」
   昇級を頼みにいった将官が叱責を受けたうえ、ついに推薦人となってもらえなかったという話もあるからな――と、アントン中将は笑いながら言った。だから、敵も多いのだ、と。
「私の知る限り、ロートリンゲン大将の考える軍の理想像と、君の望む軍の姿は一致している筈だ」
「アントン中将……」
   アントン中将は一度此方を見て微笑し、それからひとつ咳払いした。

「確りしろ、ジャン・ヴァロワ少将!」
   久々の叱責の声に思わず背を正す。アントン中将は俺を真っ直ぐ見つめた。
「今後は良き後輩に恵まれる筈だ。ロートリンゲン大将がそのように人材を育成してきたのだからな。私の代は昇級争いばかりで詰まらなかったが、君の代には大分変わってくる。私は今退役し、士官学校の講師だけは続けているが、なかなか面白い人物が数名いるぞ」
   この日、アントン中将へ昇級の報告を終えてから、夕食を共にし、陽が暮れてから辞した。

   今年退職したアントン中将は、長閑な今の生活を楽しんでいるようだった。朝起きて、愛犬ジャンと共に散歩に行き、庭の手入れをしたり、趣味の硝子細工に勤しんだりと、毎日を満喫しているらしい。休暇となると姪が来るんだ――と嬉しそうに話していた。
   アントン中将の姪とは私も一度会ったことがある。まだ幼い少女で、アントン中将はまるで自分の孫のように可愛がっていた。来月も遊びに来るらしい。
   面倒事は若い者達に任せた――と言いながら、アントン中将は豪快に笑っていた。

   果たして自分が期待されるに足る人物だろうか――、そんなことを考えながら、帝都への道程を戻っていった。


[2010.5.28]
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