執務室に足を踏み入れると、書類が山積みになっていた。
   予想以上の状態に失笑してしまう。
「再三に亘る議会からの呼び出しで、机に居ることが出来ん。先刻、議会と各部にお前が戻ってきたことを伝えた。明日は議会に顔出しをした後、会議の連続だから覚悟しておけ」
「ムラト大将の援護に期待しますよ。……ところで、責任論が持ち上がったと聞きました。ムラト大将、エスファハーンでの責任は全面的に私が取ります」
   一人だけ逃げるな、とムラト大将は笑いながら言った。
「お前が長官に任命された時に言った筈だぞ。一蓮托生だと。お前が責任を取らなければならん時には、俺もそうする。特に今回のことは俺にも多分に責任のあることだ」
「ですが、ムラト大将まで辞任したら人事で紛糾します」
「ま、戦後だったら紛糾しようと構わんさ」
「戦後まで議会は待ってくれますかね」
「その点は何とかな。……まあ、今こそ俺達を引き下ろそうと躍起になっているのも居るがな。ハリール大将とか」
   マスカットの支部長が、ハリール大将に呼ばれて出張中だと言っていただろう――、とムラト大将は告げる。道理でムラト大将がハサン大佐に苦言を漏らした筈だ。あれは故意にそうしたのだろう。

「ところで、帝国に関して聞きたいことがあるのだが……。いや、その前に宰相のことだ。レオン、お前は以前、マルセイユでルディという名の男に助けられたと言っていただろう。もしかして宰相とは彼だったのか」
「流石に察しが良いですね」
   流石はムラト大将というべきか。ムラト大将はやはりそうだったのかと納得したように呟きながら、ハリム少将がちょうど持って来てくれた珈琲のひとつを俺に手渡した。
「交渉での宰相の言動もいつもと少し違った。精彩を欠いている……というか、いつも通りの鋭敏さに欠けているというか……な。だからもしかしたら、と思っていた。宰相も知った人間だったから、こうして逃がしてくれたのだろう」
   ルディもそのようなことを言っていた。相手が俺だったからこそ、間違いに気付いたのだ、と。だが、きっとそうではないと思う。
「そうでもないと思います。捕虜殺害となったら、宰相とヴァロワ大将は捕虜が誰であれ逃がしたでしょう。彼等はそういう人間です」
   ムラト大将は顎に指を添えて少し考え、その点も頷けるな――と呟いた。宰相が冷酷無比な人間ではないことは、ムラト大将もよく知っていた。
「まったく惜しい人材だ。……そういえば、彼の弟については何か聞いたか?」
「ええ。弟のハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン大将は国外追放になったそうです」
「国外追放……。では噂は本当だったのか」
「ええ。元々彼は第三皇女と恋人同士だったそうです。皇帝も当初は二人の仲を認め、婚約まで至っていたと……。ですが、第一皇女に次いで第二皇女までが亡くなったことで、皇帝にとっての事情が少し変わってしまったようです。女帝となる第三皇女の結婚相手には宰相の方が相応しいということになり、弟のロートリンゲン大将は皇女を連れて逃亡したそうです。この国に亡命するつもりだったようだと言っていました。……ですが途中で捕まって、国外追放に処せられたとのことです」
「何と言うことだ……。あの皇帝は自分で自分の手足を切っていることに気付かないのか……」
「宰相は自分自身にも責任を感じています。権力を手にするために弟を切り捨てた、と。ですが私は、最大の原因は其処にあるのではなく、帝国の体制にあるのだと思います」
「……とんだ難問を持ち帰ったな、レオン。下手をすれば大戦争になるぞ」
「きっともう時間の問題です。フリデリック・フォン・シェリング大将――、彼が軍務省での実権を握っていることを考えれば」
   ムラト大将は大きく息を吐いて、エスファハーン以北の地域には既に防衛戦を張ってある、と言った。

「アジア連邦の援軍も到着している。大軍が押し寄せようと暫くは防戦出来る数だ」
   ムラト大将が数枚の書類を差し出す。一枚目は作戦立案書だった。
「流石にムラト大将は素早い」
「それはヴァロワ大将のおかげだ。彼が交渉中断を告げる時に、少し含みを持たせるようなことを言った。国防に備えろという彼なりの助言だったのだろう」
   お前から宰相とヴァロワ大将の話を聞いて、やはりそうだったのだと確信した――と、ムラト大将は言った。

   これまでの帝国はルディを中心にヴァロワ大将やルディの弟のロートリンゲン大将が反戦を支持していたからこそ、平穏を保つことが出来たのだろう。そうだとすると、今は留め金の外れた状態ということになる。帝国は自国が滅びるまで戦争を続けることになるだろう。
   二枚目の書類を捲ると、其処にはアジア連邦の援軍の数が書き込まれていた。
「……随分な援軍ですね」
「連邦は何か考えているのかもしれんな。あの国にしては動きが迅速だ。フェイ次官が何か企んでいるように思えてならん」

   アジア連邦のフェイ・ロン次官のこととなると、ムラト大将はいつも渋い顔をする。アジア連邦との会談のなかで、何度か彼に会ったことがあるが、ムラト大将と同じく策略を積み重ねる類の人間だから、ムラト大将にしてみればやりにくい相手なのだろう。帝国では宰相、アジア連邦ではフェイ次官、この二人を相手にする時にはいつも頭の回転を倍以上速めなければならないのだと、ムラト大将は常々言っていた。

「この援軍ばかりではないぞ。状況によっては海軍を動かして、帝国領海の封鎖を行うと言っている。おまけにその際の軍資金は自国で調達するとな」
「……我が国にとっては良い条件すぎますね」
「ああ。だからアジア連邦も何かあるに違いないんだ。あのフェイ次官を動かす何かがな。あの若いフェイ次官が考えていることが解らんというのも癪に障るが……」
「彼はアジア連邦きっての切れ者と名高いですからね。アジア連邦は年功序列という考え方がありますから、彼はまだ次官に留まっていますが、それでも数年後には長官となる人材でしょう」
   それもそうだが――と言葉を濁しながら、ムラト大将は腕を組む。確証は無いのだがな、と言い置いてからムラト大将は言った。
「アジア連邦は何か切り札を持っているような気がしてならない。……フェイ次官は此方の勝利を確信しているように見える」
「切り札……ですか?」
「ああ。……で、先刻伝え忘れていたんだが、明日、そのフェイ次官と非公式での会談が入っている。俺とハリム少将で臨む予定だったが、お前も戻ってきたことだし、良い機会だ。俺と二人で臨まないか」

   アジア連邦との繋がりは、これからも一層強まることだろう。帝国が侵攻してきたとなれば、連邦の軍を交えての作戦会議も増えてくる。フェイ次官とももう少し話を詰めておく必要があるだろう。

「解りました。何時からですか?それまでに資料に眼を通しておきますから……」
   ムラト大将は不意に立ち上がって、扉の方へと進む。
   扉から顔を出して、ハリム少将を呼んた。

[2010.2.13]