こんなにも心苦しいものはなかった。
   殴られた方がどんなに気が楽だったか――。
   これまで一度も祖父の涙を見たことが無かった。それなのに、今こうして目の当たりにすることになろうとは、思わなかった。

「ごめん……。祖父さん……」
   言葉だけは足りない。こうなるとどう謝って良いのかさえ、解らない。
「お前を失うかと……。良かった……。無事にこうして帰ってきてくれて……本当に……」
「ごめん……」
   祖父の身体を抱き締め、もう一度謝る。本当に申し訳なくて、自分が情けなくて、胸が張り裂けそうになる。
   ベッドに横たわる祖母に眼を向けた。祖母は眠っていた。蒼白い顔で、酷くやつれてみえる。
「祖母さんの具合は……?」
「朝、眼が覚めてまた眠った。今、起こそう」
   祖父は祖母に顔を近付けて、祖母の名を何度か呼んだ。祖母の瞼がゆっくりと動く。
「レオンが無事に帰ってきたぞ」
   祖父が祖母に告げると、祖母はレオン、と短く呟いて辺りを見回した。その視界に入ると、祖母は眼に涙を溜めてレオン、レオン、と何度も呼んだ。
「ごめん、心配をかけて……。俺のせいで身体まで悪くして……」


   俺は謝っている。だが――。
   俺はきっとまた祖父母を心配させるだろう。帝国と再び戦争となれば、戦地に赴かざるを得ない。
   こうして謝っていても、俺はきっとまた祖父母を悲しませるのだろう――。


   一時間程、病院に滞在し、それから祖父をホテルに送り届けた。部屋に着くなり椅子に腰を下ろした祖父の姿は、明らかに疲れ切っていた。
「祖父さん。食事を摂ったら早く休んで。そうしないと祖父さんまで倒れて……」
「レオン。お前はまた戦争に行くのだろう」
   祖父は顔を上げて言う。胸の内を読まれているようでどきりとした。
「……お前が長官という重責を担っている以上、そうなることは解っておる……。だがレオン、国を守るという大義名分を掲げたとて、その行為の根本は殺人だ。人が人を殺す――どのような美談を並び立てたとて、戦争とはそういうものだ」
「祖父さん……。ごめん……」
「お前が謝るべきは、お前が手に掛けた数々の人の命に対してだ。祖母さんや儂にではない。お前は口では謝りながら、また人を殺し続けるのだろう」
「祖父さん、少し言い過ぎ……」
「テオ、良いんだ。……祖父さんの言っていることは本当のことだ」
   祖父の言葉を遮ろうとしたテオを制し、祖父に向き直る。祖父は俺を真っ直ぐ見つめた。
「その手で数多の人の命を奪い、お前はお前の心を痛めるだろう。其処までしても、お前が求めるものとは何だ」
「……平穏を。この国と世界の平穏を」

   この国だけの平穏を望むことはもう出来ない。経済面でこの世界中の国々と直接的にも間接的にも繋がっている以上、一国のみの平穏などあり得ない。
   だがこの願いは、大それた望みだ――と、きっと誰もが言うだろう。俺自身も嘗てそう思っていた。自国のことだけで精一杯だった。
   しかし、ルディと話をするなかでその考えを改めた。そしてその望みが実現可能かもしれないと思うに至った。専制色の強い帝国にも、ルディのように他国との協調を重視し、帝国を変えようとする人が居る。世界一広大で経済力のある帝国が変わるならば、それを受けて世界全体が変わることが出来るのではないか。
   ならば、たった数十年で良い、世界の平穏を手に入れることも不可能では無いのではないか――と。

   祖父は何も言わず、俺を見つめた。暫くして、大きく息を吐く。
「お前の手には余ることだ。その望みを叶えるためには、望みとは裏腹の多大な犠牲が伴う。レオン、お前がそれを背負う覚悟はあるのか」
「……覚悟は出来てる」
「そうか……」
   大それた望みだとは言われなかった。祖父はもしかしたら、俺の望みに気付いていたのかもしれない。ただ俺に確認するために、問い質したのかもしれない。
「ごめん……」
「ならば謝るな。……その代わり、何があろうと必ず生きて戻って来い」
   祖父の言葉は、ひとつひとつが重かった。祖父は目前のことだけでなく、将来のことまでも見越しているようだった。戦争が終わり、平穏を取り戻したといっても、俺は殺人という罪を背負い続けるのだということを――。
   三人で食事を摂り、祖父のことはテオに任せて、俺は再び本部へと戻ることにした。国防のこと、そしてルディのことが頭を犇めいていた。



   時計は午後8時を示していた。人目につかぬよう気を配りながら、そっと本部に向かった。
   軍本部には予想通り、ムラト大将が残っていた。ハリム少将もまだ書類と向き合っていた。
「何だ。戻って来たのか」
   ハリム少将に何か指示を下していたムラト大将は、此方を見遣って言った。
「ええ。もう少し話をしたかったので」
「明日、少し時間を取ろうとは思っていたが……。四日間連日移動だったのだろう?疲れていないのか」
「昨日は充分に休みましたから……。ムラト大将こそずっと此方に詰めているのでは?」
「まあな。お前の執務室で仮眠を取る毎日だ」
「……すみません」
「詫びは戦争が終わってから聞こうか」
   ムラト大将は執務室に行こうと俺を促す。


[2010.2.12]