帝都を出て三日目を迎えたこの日、頭痛と軽い眩暈に見舞われた。
   精神的な解放感とは裏腹に、身体が疲労しているのだろう。レオンが休んでいる間に、持ち合わせの薬を服用した。今のところ、症状はそれほど酷くない。薬で治まる筈だ。


   あと少し――。
   今日一日車を走らせればリヤドに到着出来る。リヤドからは車を降りて、徒歩で移動するしかない。険峻な山を越える経路が一番、見つかりにくい。
   レオンをマスカットに送り届けるまでは――、体調を崩したくない。倒れたくない――。


「……ルディ。交替しよう」
   レオンは倒していた座席を起こして言った。三時間ずつ交替で休むことにしていたが、まだ少し早いような気がした。時計を見るとやはりまだ一時間しか経っていない。
「あと二時間はゆっくりしてくれ。リヤドからは徒歩で山を越えなければならないのだから……」
「だからこそ、ルディが休んでおけ。俺は軍で随分鍛えられている。一週間ぐらいの徹夜は何とも無い」
「……羨ましいな」
「そうでもないよ。一週間の徹夜が出来るならと、人の倍以上の仕事を押しつけられる。左官級だった頃は結構ハードな毎日だったよ」
   レオンはシートを倒して休むよう促す。何だか気が引けて迷ったが、今の体調を思うと少しでも休んでおいた方が良いようだった。
   眼を閉じて暫くは頭の痛みが脈打つのを感じていてが、やがて意識が遠退いていった。



   車が大きく揺れて眼を覚ました。
   薬を飲んで休んだ甲斐があったのだろう。時計を見ると一時間しか経っていなかったが、頭痛は治まっていた。
「大丈夫か?まだ休んでいても……」
「大丈夫だ。状況は?」
「今のところ憲兵の姿は見えないな」
「そうか……。このまま順調に進むことが出来れば、今日の午後4時にはリヤドに到着出来る。其処からは車を降りて山道を歩くことになるが……」
「ルディは大丈夫か?」
「ああ。だが出来れば、山に入る前に少し休憩を取りたい。今日一晩は、人目につかない所に車を停めて休みたい。そして明日の朝、山に向かおうと思うが構わないか?」
「勿論。そうしよう」
   無理は出来ないことは、自分が一番良く解っている。今は体調も回復したとはいえ、険峻な山を登ったり下りたりするのは流石に身体が堪える。途中で倒れても、レオンはその場に置いていってくれないだろう。背負ってでも共に行こうとするに違いない。だから、私が倒れないためにも、山に入る前に少し休んでおく必要があった。



   リヤドは帝国の西側にあり、新トルコ共和国と国境を接する町の一つだった。国境付近は山が連なっている。険しい山のため、リヤドの住民は町の東端にある平野部で暮らしている。
   午後三時にそのリヤドに到着出来た。町はさほど活況を呈している訳でもなかった。車とすれ違うことも無い。新環境法により車の所有には多額の税金がかかることから、田舎町ではこうして車を走らせているだけで目立ってしまう。
   先程から、行き交う人がちらちらと此方を見ているのはそのせいだろう。これまで通過してきた町はそれなりに人口も多かったから、車の通行もあった。だが、此処はこの車以外の通行が無い。このままでは却って目立ってしまう。
   何処かで乗り捨てなければ。それもすぐには解らないような場所へ――。
「ルディ。これは主要道かな?」
「え?ああ。此処は国道だ」
「リヤドの隣町まではどれぐらいの距離が?」
「此処から5キロ……いや、4キロか」
「このまま其処まで行こう。此処では目立ちすぎる」
「そうだな」
   いつ憲兵達に見つかっても逃げ切ることが出来るように、車をオートモードから切り替えてハンドルを握る。人々の視線を浴びながら、この町を抜け、隣町へと向かった。幸いにして隣町のシャクラーでは車の姿が確認できた。
   暫く車を進めたところで、レオンはモニターに映る地図の一点を指して言った。

「此処に大きな動物園がある。駐車場もあるから、閉園するまでは此処に車を停めよう」
「……駐車場に停めたらすぐに気付かれないか?」
「却ってこういうところに停めた方が気付かれにくい。まさか動物園に立ち寄るとは思わないだろう?」
   言われてみれば尤もなことだった。既に国境付近の山には厳重な警備が敷かれているだろうし、駅も見張られているだろう。動物園の駐車場に車を停め、一息吐いた。車は21台停まっている。私の車と同色の車も何台か居た。確かにこれならば紛れて気付かれ難い。
「此処に停めてある車が出たら、俺達も出よう。それから暫く国道を走って、陽が呉れたところで人気の無い場所に停車して休もう」
「解った」
「運転、俺が変わるからルディは休んでいてくれ。何かあれば起こすから」
「しかし……」
「休んだ方が良い。あの山を越えるのだろう?結構険しそうだ」
   レオンは視界の端にある山を見遣って言った。この三日間、私は彼の厚意に甘えて休んでばかりだった。心苦しいのと情けないのとで、返す言葉が無かった。
「ほら、座席を替わろう」
「……済まない」
   車から一旦降りて、レオンと席を替わる。レオンは降りる際に、座席を後ろに倒してくれていた。その座席を上げようとすると、レオンはそれを制す。横になっているよう告げる。
「あまり体調が良くないんだろう?三日間も車のなかで過ごすということもこれまで無かっただろうし……」
「……自分の身体が情けない。いつも大事なときにこうして動けなくなる」
「そんなことは無いさ。此処まで案内してくれた。ルディが居なければ、俺は道に迷っていたよ。この三日間、何度も地図を確認して行く先々で経路を変えていただろう?」
「なるべく憲兵達に気付かれないような経路を取った。……こういうことは得意なんだ。子供の頃から、地図が好きで眺めていたから……」
   身体が弱くて遠出が出来ないから、部屋のなかで地図を眺めて楽しんでいた。変わった趣味だとミクラス夫人は言っていたが、そのおかげで帝国の地名の殆どを憶えた。目的地までの最短の経路も辿ることが出来る。
   まさかそうしたことが、役に立つ日が来るとは思わなかったが――。
「そのおかげでこうして誰にも見つからず、此処まで来ることが出来た。ありがとう、ルディ」
「まだこれからが難関だ。山を越えなくてはならないし、それにおそらく憲兵達が見張っているだろう」
   明日からはこれまでのように、すんなりと先に進めないような気がする。レオンの戦闘能力は高く評価しているが、それでも取り囲まれたら手に余るだろう。それに国境を接している山は岩が多く、足場の確保も難しいに違いない。


[2010.2.5]