目覚めると辺りが白んでいた。夜が明けていた。
   少しだけ休もうと眼を閉じたのは、10時頃だった筈だ。慌てて時計を見ると、午前6時になろうかとしていた。私は8時間も眠り込んでいた。
「済まない。仮眠のつもりが……」
   慌てて座席を起こすと、レオンは首を横に振った。
「構わないよ。ぐっすり寝ていたから起こさなかったんだ」
「……済まない。こんな時に」
   こんな状況の下で8時間もよく眠れたものだと、我ながら呆れる。何よりも気恥ずかしかった。
「謝ることないさ。疲れたんだろう。俺も君の身体のことを知らず、無理させてしまったからな」
   レオンは後部座席から、水の入ったボトルを取って、私に差し出した。礼を言って受け取り、その蓋を開ける。追っ手はまったく来なかったよ、とレオンは言った。
「ヴァロワ卿が上手く捜査を攪乱してくれているのだろう。とはいえ、国境に近付けば、そうはいかないだろうが……」
   モニターに映し出された地図を見ると、既に三分の一の距離を進んでいた。この分ならば明後日まで車を走らせればリヤドに到着出来る。その後、車を乗り捨てて山から新トルコ共和国領のマスカットに入国する。一日かかると考えて、あと四日――。
「ルディ。そう厳しい顔をするなよ」
   私の方を見て、レオンは笑みを浮かべながら指摘した。
   自分では全くそう思わなかったが――。
「……そんなに厳しい顔をしているか……?」
「ああ。宮廷の女性達を騒がせるという美形の宰相の異名が台無しだ」
「……何だ、その異名は」
「俺の国ではそういう噂だ。ムラト大将もその通りの美形だったと言っていたぞ」
   随分と奇妙な噂が流れているものだった。写真や動画といった映像が出回らないと、そういう噂が立つものなのかもしれない。
「……お前こそ、此方では国王に縁のある者という噂があったが?」
「俺が?」
   酷く驚いた様子で問い返す。頷き返すと、レオンは一笑に付した。
「俺の両親はごく普通の会社員だった。両親が亡くなった後、育ててくれた母方の祖父母も鍛冶屋を営む職人の家だったしな。国王とは何の関わり合いも無いよ」
「鍛冶屋?」
「ああ。工場ではなく鍛冶屋だ。鉄の鍛造――、金属を叩いて成形して色々なものを作っている。丁寧な仕事が出来るけど、何分にも生産効率が悪い。帝国ではもうそんな手法は無いだろう?」
「本で読んだことがある。しかしもう随分前に廃れたと……」
   精巧な剣や刀は、しばしばそうして作られると聞いている。実際にその光景を見たことはないが、美術館でそれらの刀剣を眼にしたことがある。
「手でひとつひとつ作ることに、冷たい鉄にも温もりが出て来るって祖父は言うんだけどね」
「興味深いな」
「だから、俺は王家とは全く関係無い」
「根も葉も無い噂だということか。国王の信任が厚いし、表に……国際会議にも顔を出さないから、もしかしたらと思っていたが」
   ああ、成程、とレオンは思い当たることがあるような様子で、私に向き直って言った。
「それは国王が進歩派の俺達に力を貸してくれていたからだ。共和制への移行を望んでいた一派と、従来通りの君主制を望んでいた一派の対立が激しい時期があってね。あの頃は軍部も二派に分かれていた」
「……今の帝国と同じだ」
「何かを変えようとすると必ず反発がある。その頃、国王はまだ国の将来を考え倦ねていた頃だったから、余計に派の対立が深まっていった。元々、保守的な勢力は年齢層の高い上官層で、入隊当初の若手士官はあらゆる面において粛正されていた。俺の場合は、上官が進歩派だったから随分恵まれていて、そのおかげで昇進も出来た。将官となった頃、対立がますます激しくなってきた時、国王が共和制への移行の意志を固めて、一気に形勢逆転したんだ。そして保守の急先鋒であった軍部長官も辞任し、その代わりに立ったのが俺だ。大将となった間も無い頃だったから、まさか長官の任命を受けるとは思わなかったがな。他部の長官のなかでも一番若かったから、国王が色々と気にかけて下さった」
「そうだったのか……。確か2年前に長官となったのだったな」
「ああ。表に出なかったのは、そういうことは全てムラト大将に任せてきたからで……、あとはまあ、俺自身、暫くは自由に動きたかったというのもある」
   当時は、ムラト大将が長官になるものだと思っていたからな――とレオンは苦笑した。

   新トルコ共和国も紆余曲折があったのだろう。
   それにしても、レオンと話していると話が広がっていく。そうした会話が楽しくて、自分の置かれている状況をふと忘れてしまう。

   食事を摂り、レオンに少し休んでもらって、私はその間に経路の確認をした。車内モニターに地図を映し出しながら、入念に経路を辿る。憲兵達が追って来るのは時間の問題だ。出来るだけ彼等の眼の届かない経路を取りたい。それでも憲兵達と出くわした時には、どの道に逃れれば良いか――。
   考えつくだけの経路を頭に叩き込んでおかなければ――。


「ルディ。この辺はあまり人気が無いようだから、車を停めて少し休もう」
   昼を過ぎ、閑散とした町を抜けたところで、レオンは提案した。確かに、座ったままの体勢ばかりだったから身体を伸ばしたかった。
   大きな木の脇に車を停めて、少し外を歩いた。大きく伸びをして空気を吸い込む。単純なそれだけのことが、とても気持良かった。
「……こんな風にのんびり外を散策するのは久々だ」
「俺も本部に詰め切りだったからなあ……」
「共和国には風光明媚な場所が多いと本で読んだことがある。惑星衝突の崩壊を免れた遺跡もあるとか……」
「ああ。子供の頃はよく連れて行ってもらったよ」
   新トルコ共和国は国土はそれほど大きくないが、自然が豊かな国だと聞いている。海は無いが大きな川が二本、国土を縦断していて、川の周辺の地域は川の恩恵を受けているという。
「ルディ。共和国に到着したら、すぐに君の亡命申請をしよう。経緯から考えても受理される筈だ」
「レオン……」
「亡命が受理されれば、堂々と表を歩ける。そうすれば、これまでルディが見たことのない場所にも行けるだろう」

   レオンの言葉はありがたかった。
   レオンなら――、こんな責任感の強い人間なら、私のことを上手く取りはからってくれるだろう。それはよく解っている。
   一方、帝国は私を許さないだろう。皇帝は怒りに震えていることだろう。その姿が手に取るようによく解る。
   このまま帝国に留まれば、私は死刑に処せられるに違いない。刑を減じたとしても国外追放か無期懲役か……。

   だが幸いなことに、ロートリンゲン家にまで影響はしない。ロートリンゲン家が倒れれば、帝国の経済が傾く。皇帝も財務省もそれを知っているから、ロートリンゲン家が潰されることは無い。このことだけは不幸中の幸いと見るべきだろう。

   だから私は今回のことに踏み切れた。
   そして覚悟も出来ている――。

「そろそろ車に戻って移動しよう」
   レオンを促して車へと戻る。
   私の心は決まっていた。
   私は何が待ち受けていようと、この帝国を離れない――と。
   私は私の務めを果たす――。


[2010.2.4]