皇帝はいつも通り、机に向かっていた。その手にペンは持っておらず、一歩一歩近付く私を見据える。まるで私の到来を待っていたかのように。
「ジャン・ヴァロワからお前に話は伝わるだろうと思っていた」
「陛下。質問をお許し下さい」
   皇帝の机の前に歩み出る。皇帝は頷いて、良いだろうと応えた。
「このたびの戦争は侵略戦争と私は捉えています。陛下はどのようにお考えですか?」
「侵略戦争であることは否定しない」
「では陛下はそれを御承知の上で、このたびの戦争を支持するのでしょうか。これまで帝国が侵略し、領地に組み込んできた地域はいずれも陛下への忠誠心が薄く、内乱が多発し、この帝国に不利益をもたらしています。そうした地域が手を取り合えば、この国の地盤を揺るがしかねません。その内情は陛下も御存知の筈です」
「今回の戦争は別だ。フリデリックの案が其処にある。新トルコ共和国の資源は計り知れない。たとえ大きな内乱が起きようと、それを手に入れることによって、此方の軍を強化し、内乱を沈静化させることは可能だ」
   すうっと冷たいものが胸の内に広がっていく。この皇帝に何を言っても無駄なのだと、頭の中で警告される。
   それでも――、今一度。
「陛下。お考え直し下さい。支配地の民達の恨みを買うことは、この帝国を崩壊に招きかねません」
「フェルディナント。好機というものがある。お前は戦争を嫌う故、今回は名を外させた。私の思いが解らぬか」
「もしこの帝国を守るための戦争であるなら、このフェルディナント、一命を賭けて戦いましょう。ですが、これは一方的な侵略です」
「この国は資源が乏しい。だが、新トルコ共和国を手に入れればその心配も無くなる。フェルディナント、今回の戦争は私の厚意でお前を外してやった。お前には戦後処理を頼む。ジャン・ヴァロワにもな。今のうちにそれを考えておけ」
「陛下。今朝、新トルコ共和国から回答があり、条約締結の準備は全て整いました。陛下はそれを破棄なさるおつもりですか。破棄なさった場合、帝国は国際的な非難を浴びます。それでも……」
「下がれ、フェルディナント。お前は早々に宮殿に入り、皇太子としての責務を憶えることだ。お前にはまだその自覚が無い」
   差し出そうとした文書を、皇帝は見ようともしなかった。
   そればかりか、私とこれ以上話をするつもりもないようで、私から眼を放す。

「……解りました。失礼致しました」
   一礼して、扉の方に身体を向ける。皇帝専属の秘書官が目礼して、扉を開けた。
「ああ、フェルディナント。お前の部屋の準備が完全に整ったと、昨日、侍従長が言っておった。今日か明日にでも不満は無いか見ておくように」
「……はい」
   再び皇帝に向き直り、そう応えて一礼する。
   だが、もう私が此処に来ることは無いだろう。
   この宮殿にも――。





「閣下!先程、軍務省が共和国に向けて交渉中断を宣言しました。此方には交渉を中断するという一方的な通達だけで……」
「……そうか」
「フォン・シェリング大将は近日中に再度宣戦布告をするつもりです。閣下、どうなさいますか」
   オスヴァルトはじめ、秘書官達が緊張した面持ちで此方を見つめる。皆、私の意志に賛同してこれまで様々な事案に協力してくれた。
   この大事の時に彼等には申し訳無いと思うが――。
「出掛けて来る」
「閣下……」
   机の上に、皇帝の許に持っていった条約の文書を置く。机の中に置いてあった拳銃を取り出し、それを上着の内側に収める。机の上に書類が何枚も重なっていた。これらの書類はオスヴァルトに任せておけば大丈夫だ。
「……閣下。どちらにお出掛けですか……?」
「お前達は通常業務を」
「私は閣下にお伴します」
「必要無い」
「ではどちらにお出掛けか、お答えください」
   オスヴァルトは詰め寄った。何か察したのかもしれない。
「オスヴァルト。これから私が行うことに、お前達は一切関与しないでほしい。憲兵や陛下に何を問われても、何も知らなかったと答えろ。良いな」
「閣下!何をなさるおつもりですか!?」
   扉に向かいかけた私を、オスヴァルトが阻む。退いてくれと告げても、オスヴァルトは其処を退かなかった。
「フォン・シェリング大将が暴挙に及んでいるとはいえ、まだ何か策がある筈です。それをお考えにならず強固な手段に出るなど閣下らしくありません……!閣下、どうか……」
「其処を退いてくれ、オスヴァルト」
「いけません……!閣下!」
   仕方が無い――。
   オスヴァルトに近付いて、済まないと耳許で囁いてから、握り締めた拳で鳩尾に軽く一撃を与える。オスヴァルトが呻き声を上げて、その場に崩れ落ちる。秘書官達が慌てて駆け寄った。
「私はオスヴァルトに危害を加え、この宰相室を出て行った。何があったかは解らない――皆にはそう説明しろ。良いな?」
「お待ち下さい、閣下……!」
「頼んだぞ」
   オスヴァルトが私に向かって手を伸ばした。済まない――もう一度そう言って、宰相室を後にする。階段を下りて、足早に宮殿の裏口へと向かう。それから宮殿を出て、大通りに向けて歩き出した。

「至急、私の車をトロワビルの裏まで持ってきてくれ」
   宮殿から出たところで、ケスラーに電話をいれ、車を手配する。私の位置からも、邸からも、トロワビルまで5分ほどで到着出来るだろう。
   オスヴァルト達には悪いことをしたが、私はもうこれ以上は帝国の惨状を見逃すことが出来なかった。皇帝の操り人形になりたくなかった。
   トロワビルに到着すると、其処にはまだケスラーの姿は無かった。もう少し時間がかかるかもしれないと思っていたところ、車が見えた。ケスラーは私の前で車を停めた。
「フェルディナント様、お言い付け通り、フェルディナント様の車をお持ちしましたが……」
「ありがとう。済まないが、此処からは歩いて帰ってくれないか? それから伝言を頼みたい。パトリックに困った時は書棚の奥を見ろ、と伝えてくれ。……それと皆に済まない、と」
「フェルディナント様、何をなさるおつもりです……?」
「頼んだぞ」
「フェルディナント様!」

   エンジンをかけたままの車に乗り込み、すぐに発進させる。運転をするのは一年ぶりだった。いつもケスラーに運転してもらっているから、この車を動かすのも久しぶりで、メンテナンスは行き届いているとはいえ、少々心許ない。オートモードにして、行き先をバルト収容所に設定する。此処から15分で到着できるだろう。


[2010.1.29]