「閣下。新トルコ共和国のムラト次官から連絡が入っています。通信回線をお繋ぎして宜しいですか?」
   ヴァロワ卿と話を交わした翌日の朝、共和国のムラト次官からの連絡が入った。首許のネクタイをさっと整えて、通信機の前に移動する。それから秘書官に通信を繋ぐよう告げる。
   すぐにモニターにムラト次官の姿が映し出された。ムラト次官は私の姿を確認するなり、型通りの挨拶をして、用件を切り出す。
「先日の条件だが……」
   ムラト次官は条件を飲むと回答した。この時、私はどれほど安堵しただろうか。すっと胸の痞えが取れたような気がした。
「此方としては速やかに長官をお返し願いたい」
「貴国南部地域の割譲を認める調印を同時に行いたいので、来週の月曜日は如何でしょう」
   ムラト次官はそれを了承した。此方が決めた条約への調印日を月曜日、場所をシーラーズとし、同日同場所にて捕虜となったレオンを引き渡すことになった。ムラト次官は配慮に感謝しますと告げてから、通信を切った。
「お疲れ様です。閣下」
   側に控えていたオスヴァルトが、労いの言葉をかけてくる。これで一段落つきそうだと応えた時、自ずと笑みが零れた。
「ただちに文書の作成に入ります」
「頼む」
   席に戻り、電話のボタンを押す。交渉が成功したことを、ヴァロワ卿に報せておきたかった。
   ところが軍務省のヴァロワ卿の執務室に連絡をいれても、呼び出し音が鳴り続けるだけだった。他の部屋に行っているのだろうか。





   朝のうちに条約調印のための文書は完成し、あとは皇帝の署名を貰うだけとなった。昼休憩が終わったらすぐに皇帝の執務室に行こう――そう考えていたところだった。扉が突然開いた。
   ヴァロワ卿だった。ノックもせずに入室するとは珍しいことだった。
「宰相」
   ヴァロワ卿は慌ただしく私の許に歩み寄る。険しい顔つきをしていた。
「何かあったのですか?」
「陛下が戦争の継続を認めた。フォン・シェリング大将とヘルダーリン卿、それに私の前でだ」
「……どういう……ことですか……?」

   皇帝が戦争継続を認めた――?

「今朝、陛下から呼び出しを受けて、ヘルダーリン卿と共に謁見の間に行った。其処には既にフォン・シェリング大将が居た。彼がその場で提示した戦争継続案を、陛下が認めたんだ」
   何故、そのようなことになったのか。
   私には何ひとつ伝えられず――。
「陛下が認めたのは軍務省主導での戦争継続だ。宰相はこのたびの戦争に加わらないことを条件に、陛下がフォン・シェリング大将の提案を認めた。今迄ずっと謁見の間で議論していたことだ。そしてその場で強固に反戦を訴えていたら、私は一時的に長官を解任された。戦争終結まではフォン・シェリング大将が長官となり指揮を執ることとなる」
「何故……、何故、陛下はそんなことをお認めに……」
「陛下のお気持ちは私にも解らない。宰相、こうなったからにはすぐに交渉の中断を共和国に訴えて……」
「今朝、ムラト次官から連絡があって、此方の要求を飲むと回答を得られたところです。今更それを破棄することは出来ません。それに、戦争継続だけは絶対に避けなければ……」
   陛下の許に行かなくては――。
   早く、説得しなければ――。
「宰相。陛下に何を進言しても無駄だ。陛下は今は完全に主戦論側に立っている」
「ですが陛下は、今回の交渉を私に一任して下さると……!」
「陛下はおそらく共和国全土を手に入れるつもりだ。それが可能だと吹き込んだのがフォン・シェリング大将。宰相は戦争を望まないから、今回の戦争からは除外されたのだろう」

   何のための宰相なのだろう。
   肝心な時に除け者にされて、勝手に物事を進められて。
   全ては皇帝の一存で、私は彼に操られているに過ぎないのか。
   私は一体今迄、何のために尽力してきたのだろう。

「残念だが、この国では仕方の無いことだ。交渉中断の旨は私からムラト大将に伝えよう」
「陛下に謁見してきます」
「宰相。今の陛下に何を進言しても無駄だ」
「私が納得出来ません。交渉中断の連絡はまだ控えてください。オスヴァルト、先程の文書を」
   オスヴァルトから文書を受け取る。ヴァロワ卿は同行を申し出た。
「いいえ。一人で行って来ます。ヴァロワ卿は軍務省で待っていてください」
   皇帝の不興を買うのは解りきったことだった。私はどうしても行かなくてはならないが、ヴァロワ卿をこれ以上巻き込む訳にはいかない。
   一度は脱いだ上着に袖を通す。文書を眼でさっと確認した。
「……宰相。短慮を起こしてはならないぞ」
   ヴァロワ卿の忠告に苦笑で応える。それから部屋を後にする。



   意外にも、 こうして皇帝の執務室に向かって歩くうちに、私の心は落ち着いてきた。ヴァロワ卿から聞いた時には怒りにも似た激しい感情が犇めいていたが、今は嵐の去った後のように静かだった。
   皇帝はきっと私の意見を聞き入れてはくれないだろう。ヴァロワ卿が言っていた通り、無駄だと解っている。
   私は自分自身の決意を再確認するために、皇帝に会いに行く。
   今回の戦争は帝国の侵略であることを確かめる。そのうえで、皇帝にそれを止める意志が無いのなら――。
   その時は私は――。



「陛下に謁見したい」
   皇帝の執務室の前で警備に当たっていた男に、それを告げる。彼は一礼して部屋の中に入っていく。数秒後、扉が開き、先程の男がどうぞと先を促した。
「失礼致します。陛下」


[2010.1.27]