「……ヴァロワ卿の御指摘通りです。私は彼を知っていました」
   嘘を吐く必要も無く、こうして聞かれたからには全てを語る必要があるだろう。ヴァロワ卿はやはりそうだったのか、と納得するように言った。
「では宰相は共和国の長官を初めから知っていたということか?」
「いいえ。そうではないのです。私は彼が長官だと知らなかった。レオンという彼の名しか知らなかったのです」
「……どういうことだ?」
   ヴァロワ卿は眉根を寄せて問い返す。ヴァロワ卿が訝しむのも無理も無いことだった。
「もう半年前になります。私が倒れて休暇を取っていた時期のことです」
「ああ。過労で倒れて暫く休んでいたのは憶えているが……」
「療養のため、ひと月ほど帝都を離れて、マルセイユに滞在していました」
「そのことはハインリヒからも聞いている。マルセイユに別荘があって、其方は空気が良いから療養に向いていると……」
「ええ。そのマルセイユで療養中のことです。……帝都に帰る一週間前のことですが、マルセイユの町を散歩していた時、路地裏で数人の風貌の悪い男に絡まれている人物を見かけました。それがレオン――、あのアンドリオティス長官です」
「共和国の長官が何故マルセイユに……」
「それは解りませんが、私達は意気投合して、出会ったその日と翌日の二日間、語り合いました。その頃の共和国はまだ王国でしたが、共和制へ移行するかもしれないという噂はありました。さりげなくそのことを尋ねると、彼もその可能性を否定しなかった。政治や経済のことに詳しい知識を持っていたので、政府の関係者かと初めは疑いました。しかし、彼があまりに率直で客観的に物事を見ているから、そうではないのだと……」

   私の話にヴァロワ卿は驚きを隠せない様子だった。まさか誰もが偶然とはいえ、共和国の軍部長官と帝国の宰相が出会い、互いの利害に関係無く語り合ったことがあるとは考えもしないだろう。私自身、そんな偶然はありえないのだと思っていた。
   それなのに――、レオンは共和国の軍部長官だった。

「共和国の軍部長官はずっと表に出ていなかったとはいえ……、宰相、貴方のことは比較的知れ渡っている筈だが……」
「国際会議に出席しない限り、顔までは解りません。政府要人の写真や映像の類はどの国も極秘としていますから……」
「……お互いに盲点だったという訳か。名乗らなかったのか?」
「互いに名乗っていたら解ったでしょうが、彼はファーストネームのみ、私はセカンドネームしか名乗りませんでした」
「ならば……、互いに素性を知らなかったのも仕方の無いことだな」
「そして私は彼に……、彼との会話のなかで、帝国は侵略をしないと断言したのです。……この言葉はその後ムラト次官にも言いました。国際会議の開始前、帝国の専用機が乱気流に巻き込まれて不時着した時のことです」
「……ああ、ムラト次官がすぐに救援を出してくれたと言っていたな。その後、ハインリヒと共に礼を述べに行ったと。その時か」
   頷き返すと、ヴァロワ卿は成程、とひとつ息を吐いた。
「侵略はしないと言っていたまさにその相手国に侵略して、そればかりか捕虜とした長官が知己だったというなら、宰相が動揺するのも無理も無いだな」
「……すみません」
「謝ることは無い。これで私も納得した。共和国への交換条件が比較的甘かったのもそのためなのだろう」
「侵略をしない、その約束を破ったことへのせめてもの謝罪のつもりでした。ですが、その条件をフォン・シェリング大将が了承するとも思えず、独断で全てを進めてきました」
「陛下には?」
「この件に関しては私に全てを委ねてほしいと伝え、了承を得ています。それに共和国に条件を提示する前、陛下にも確認して頂いています」
   ヴァロワ卿はそうか、と少し安堵した様子で言った。
「……あとはフォン・シェリング大将一派を牽制しつつ、共和国側の回答を待つのみ、か」
   このまま全てが上手く収束してくれれば良い。今週中には共和国から回答が得られる。おそらくは明日、ムラト次官から連絡が入るだろう。
   それまで何事も無ければ――、良い。
「陛下がお気持ちを変えなければ良いが……」
   ヴァロワ卿がぽつりと告げる。
   曖昧な笑みを返した。それは私も考えていないことではなかった。
   だが、たとえ何が起ころうとも、私は自分の信念を貫くことに決めた。
   今度こそ、後悔しないために。
「宰相。何かあった時は……、事態が急変した時にはすぐに連絡をくれ。私もどうにかこの条約を持って戦争終結となるよう尽力したい」
「ありがとうございます」
   そして少しばかり雑談をしてから、ヴァロワ卿は帰っていった。



   時計の針は午後9時30分を示していた。外は暗闇に包まれていて、街灯がぽつりぽつりと道を照らす。視線をさらに先に遣ると、街の灯りが色とりどりの星のように輝いている。
   この街は、帝都は、一年前と何ら変わりない。否、もう何年も前からこの光景は変わっていない。夜は星の光を霞ませるほど、ビルの灯りがきらきらと輝く。子供の頃はそれが宝石みたいに綺麗だと思った。何を考えるでもなく、この光景を無邪気な眼で見ていた。

   私はあの頃、何が欲しかっただろう。
   健康には恵まれなかったが、物質的にも両親にも恵まれていた。父は厳しく、身体の弱い私に辛く当たったが、母は優しい人だった。ミクラス夫人もいた。私は何不自由なく育った。世間からみれば、私は裕福な家の息子だった。

   何が欲しかったのか――、あの頃はきっと健康を欲していた。子供の頃からロイを羨んでいた。毎日のように寝込んでいたから、元気なロイの姿を目の当たりにするのが辛い時もあった。ロイや同年代の子供達と同じように外に出て遊びたかった。学校にも通いたかった。健康でありさえすれば――と何度考えたことか。
   今でも、健康な身体が羨ましく思える。だが、それはきっと私の何処かで無理だと諦めていることでもある。大人になり、自分の限界を知っているから、子供の頃ほどにはそれを切望していない。

   今、私が欲しいものは何だろう。
   少し前まで権力を欲していた。この私の手でこの国を変えたいと強く願った。
   今は――そうした気持を確かに持っているが、私自身を駆り立てるような強い思いではなく、どちらかといえば成り行きに任せて、傍観しているような気がする。どうでも良いとかそういうことでもない。
   私の手には余ることで、それを思い知らされて茫然としているような――。
   そういえば、父がよく言っていた。少し物事が解るからと言って慢心するな、と。私は慢心していたのだろうか。私がこの国を変えられると。


[2010.1.26]