『ムラト大将。私に万一の事態が生じたら、軍内部で混乱が生じないよう上手く取り纏めて下さい。私のことは最大限に利用して構いませんから』
   最後に取り合った連絡で、レオンはそう言っていた。真顔で言って、一方的に通信を遮断した。嫌な予感がした。エスファハーンに行かせるべきではなかったかもしれないと、その時初めて思った。
   そして、予感は的中した。せめてあの連絡を受けた時、すぐに首都に戻って来いと言うべきだった。
   レオンは物事の先読みが出来る。俺が見てきたなかで一番頭の良い人間だ。こうなることを予期していたのかもしれない。
   否――、頭は良くない。愚かだ。
   この事態を読んでいたのなら、何故首都に戻って来なかった? バース中将やギラン中将が命を賭して守ったというのに――。
「……レオンが逃げ帰る訳がないか……」
   レオンとはそういう男だ。だから長官に推薦した。人望を一身に集めるこういう男こそ、軍という集団を纏めるのに適した人材だった。
   だが――。

「失礼します」
   長官専用の執務室に入ってきたのはテオだった。書類を携えて眼の前に進み出る。
「外交部からの書類です。それからアジア連邦の軍務次官がムラト次官と会談したいと」
   テオは黙々と書類を差し出す。平然とした素振りを見せるテオが、痛々しく見えた。


   レオンが捕虜となったという一報を受けたのは、一昨日のことだった。その報せに初めは耳を疑った。レオンは武術に優れていて、士官学校時代からその名を馳せていた。謙虚で穏やかな性格に似合わず、剣術も射撃も一流の腕前で、軍のなかで1、2を争うのではないかとさえ噂されていた。だから、そう簡単に捕まることは無いと思っていた。

   それなのに――、この事態となった。
   ハリム少将からの連絡を受けた時、言葉を失った。こんなにも簡単にエスファハーンを攻略されると思っていなかった。否、そればかりかまさかレオンを捕虜に取られることになろうとは全く予想もしていなかった。
『馬鹿な……!バース中将やギラン中将はどうした?ハッダート大将は!?』
『バース中将、ギラン中将共にエスファハーン支部において戦死なさいました。ハッダート大将の生死は未だ不明です』
『馬鹿……な……』
『帝国側に私とラフィー准将が捕虜となる旨を告げ、一時は了承を得ました。しかし長官が命令だと仰って、私達を庇い自ら投降を……』
   ハリム少将は声を震わせていた。長官という立場を考えなかったのか――と怒りを覚えたが、レオンらしい行動だった。おそらくレオンは、最後まで戦ったのだろう。
『解った。……シーラーズは落ちたのだな?』
『一時停戦の条件として、長官の身柄確保とシーラーズ割譲を告げられました。今から30分後に帝国がこの支部で声明を出すと言っています。ムラト次官、申し訳ございません……!』
『いや……。状況によっては、シーラーズを早期に放棄することは決めていた。お前達はよくやった。エスファハーン支部は熾烈な戦場となったのだろう。被害状況は改めて報告してもらうとして……、お前達には怪我はなかったか?』
『ラフィー准将が撃たれました。ですが、命に別状はありません』
『そうか。では今エスファハーン支部にいる将官で最上級の者はハリム少将だな?』
『はい。支部の将官は帝国軍の突入によって全員戦死を』
『ではハリム少将、其方での指揮を一任する。至急残存兵力を集結させ、首都に撤退を。負傷した者は病院へ運んでくれ。それからハッダート大将の安否確認を頼む』
『はっ』
   ハリム少将は敬礼して応える。通信を切ってから、気付いた。テオが側に佇んでいることに。
『テオ……』
   テオはぐっと拳を握り締め、声を震わせながら言った。
『兄さんが捕虜に……?』
『残念ながらそういうことだ。もう少しで帝国が声明を発表する。……気軽に大丈夫だとは言えんが、交渉次第では無事に戻って来られる』
   テオは顔に手を遣り、歯を噛み締めていた。テオとて解っている。今の俺の言葉は気休めに過ぎないということ、捕虜となるということがどういうことか――。
   だが、望みが無いという訳ではない――。
『声明を聞くまでは解らんが、交渉の場に立ち合うのは宰相だろう。話の解らない人間ではない』
『……でも兄を捕虜としたのもまた宰相です。この卑劣なやり方も……』
   テオの悲痛な叫びが、胸に突き刺さった。そんなテオにかける言葉は見つからなかった。どんな言葉を言っても気休めにしかならない。否、軍に精通してれば気休めにもならない。
   捕虜の扱いは国ごとに異なる。人道的に扱ってくれる国もあれば、惨い扱いをする国もある。捕虜に関する国際規約があるとはいえ、新環境法ほどの法的拘束力を持たない。帝国の捕虜の実態について、早々に調べておかなければならない。
   兎に角も本部の将官に一足早く事態を告げ、内部の混乱を回避しなければならなかった。すぐに部屋を出て、将官達の部屋に赴き、レオンが捕虜となったことを伝えた。その場に居る全員が声を失った。
『帝国から声明が出る。その後、すぐに私から軍の全部署に向けて通達をする』

   その後すぐに帝国からの声明が伝えられた。報道官がレオンの身柄を捕縛したことを伝えた時、レオンの姿が映った。怪我を負っている様子は無かったから、これ以上の被害拡大を懸念して自ら投降したのだろう。その後、宰相が声明を発表した。テオは声明を聞きながら拳を握り締めていた。
   声明が終わるなり、通信回線を繋いだ旨を少将が告げる。頷いて、机の上のマイクを取った。
『私は軍部次官アブドュル・ムラト大将だ。帝国からの声明を聞き、皆、戸惑っていることと思う。だが、各自業務は通常通り続けてほしい。指揮は軍法第5条第1項に基づき、長官に代わり、次官である私が執り行う。早期での長官奪還のためにも皆の協力を頼む』


   軍本部の目立った混乱は無かった。その他の支部でもそうした動きは無い。一方で他省からは長官の行動が軽率だの、何故本部将官達が、長官がエスファハーンに行くのを阻止しなかったのかだの、続々と非難が寄せられた。財務部はシーラーズ割譲について軍部で単独に決めたことに対して怒りを露わにし、軍部の責任を追求し始めた。シーラーズ割譲のことについては財務部に前もって話しておいたのに、この事態になったから責任を此方に擦り付けたのだろう。
『事態解決後に長官ならびに私が、然るべき形で責任を取る。今は停戦状態にあるとはいえ、戦時中だ。責任論を語っている場合ではない』
   長官級の会議で言い放ってからは、それらの声も大分小さくなってきた。
   一方テオは、あの時以来、レオンのことを口にしていない。黙って業務に取り組んでいた。



「外交部には私が直に行って話をつけてくる。アジア連邦のフェイ次官との会談は明日の午後に設定してくれ」
「解りました」
   テオは敬礼して部屋を去っていく。

   交渉の進め方次第で、レオンの生殺与奪が決まる。
   だがおそらくは、レオンは命までは奪われまい。レオンを捕虜として最大限に利用するには、生かしておいた方が良い。
   そして、あの宰相ならば非道な真似はしない筈だ。加えて、レオンの才能を知ればむざと死なせることはしないだろう。帝国軍が喉から手が出るほど欲しがる人材かもしれない。

   レオンは、入隊当初、特殊部隊からの引き抜きがかかるほど武術に長けていた。有望な幹部候補生だからということで、当時の上官がそれを拒んだが、確たる腕前と統率力、判断能力の早さから、レオンは異例の昇進を重ねた。そんなレオンに対する嫉妬がさほど生じなかったのは、武術の腕前に反比例した穏やかな彼の人柄だろう。この男は人の上に立つために生まれてきたような男だ――と、俺は常に思っていた。
   だからこそ、レオンという男をきちんと評価する人物が帝国にいれば、レオンの命を奪うようなことはすまい。あのロートリンゲン宰相も陸軍長官のヴァロワ大将も国際的に評価の高い人物だ。

「次官、外交部長官が話をしたいと……」
「解った」
   席から立ち上がり、書類を手にこの執務室を後にする。今、自分が出来ることは交渉を上手く進めることだけだ――静かに息を吸い込んで、レオンのことを頭から追いやった。


[2010.1.22]