第6章 侵略の途



「師団編成はこの案の通りに。ラフィー准将、住民用のシェルター確保はどうなっている?」
「長官のご指示通り、地区ごとに予備を含めて確保しました。今、各市長から住民に避難時の指示が渡っています」
「ムラト次官、臨時軍事費について議会からの回答は」
「緊急時ということで、此方の希望に沿って追加予算を組んでもらえることになった」
   避難場所の確保、軍事費の確保、これで何とか帝国を相手に戦える。あとは――。
「ではギュル参謀本部長、作戦A案の説明をお願いします」
   レジェップ・ギュル参謀本部長が立ち上がり、スクリーンの前に移動する。スクリーンが切り替わって各部隊の配置を映し出す。
「まず、帝国軍の目的からして、最初に攻め入るのはシーラーズと考えて良いでしょう。シーラーズでの攻防についてですが……」


   帝国から宣戦布告を受けたのは昨日のことだった。
   君主制から共和制への移行に伴い、帝国が戦争を仕掛けてくるかもしれないことは当初から予想されていた。帝国が侵略することを想定して、これまでも準備を怠らなかった。体制移行してからは、国境付近への常備兵を増員していた。したがって、宣戦布告を受けたからといって、軍部が慌てる事態とはならなかった。
   帝国が真っ先に侵入するであろうシーラーズには、既に10万の兵が待機している。それに加えて、昨日の宣戦布告を受け、20万の兵を送り込んだ。

   一方、国内は騒然とした。共和制に移行するにあたり、他国からの干渉を受けるかもしれないことは前もって政府から通達されていたが、誰も実感してはいなかっただろう。
   俺も、そうだった。いざこうして戦争が起こるというのに、妙に落ち着いている。
   加えて、宣戦布告が為されたにも関わらず、帝国軍の越境の報告はまだ無い。まだ何処にも攻撃を受けていない。だから今にでも、帝国が宣戦布告を撤回するのではないかとさえ、考えている。
   戦争は出来る限り、避けたかった。


   将官級の緊急会議が終わり、軍本部の執務室に戻って腰掛ける。徐に携帯電話を取り出して、着信履歴を見た。ハリム少将からの着信の他は、誰からの着信もない。

   連絡をいれてからもう10日以上が経つ。
   帝国に居るルディの許に電話をした。ルディと少し話をしたかった。
   しかしこの事態となっては連絡を取ることも無理なことか――。

   あの時、ルディは戦争は起こらないと言っていた。帝国は侵略をしない、と。
   一般人にしては政情に明るく、自分なりの主義を持っているような人間だった。君主制よりも民主制を望んでいるようだったから、考え方はどちらかといえばこの国の人間に近かった。人当たりも良く、穏やかなわりには腕っ節は強い。何者だろう――と初めは勘ぐった。しかし話すうちにルディへの不審も消えていった。不思議と、親近感の湧く男だった。
   帝国の都市マルセイユで、意気投合して語り合ったのはたった二日間のことだった。それ以来、此方も忙しくて連絡をいれることもなかった。
   だから、俺のことなど忘れているのかもしれない。
   だが――。


「レオン。先程、大統領から連絡が入った。今晩、官邸に来てほしいそうだ」
   もう一度電話をかけようとしたところ、ムラト大将がやって来た。宣戦布告という事態を受けて、ムラト大将は昨日から忙しく動き回っていた。本部の自分の席に座ることも無い。
「解りました。ムラト大将、今、珈琲でもいれますから少し休んで下さい」
「ありがたい。少し時間が空いたから、遅めの昼食を摂ろうと戻って来たところだ」
   ムラト大将は大きく伸びをしながら言った。
「まだ食事を摂っていなかったのですか」
「会議室を点々としていたら、食事の暇も無くてな。お前も何か食べるか?」
「いいえ。私も一時間前に食事を摂ったばかりですから、私は珈琲で」
   ムラト大将はお互い食事を摂る暇も無かったのだな――と笑い、電話を借りるぞ、と言って机の上にある電話の受話器を取り上げた。部下の大尉に食事を買ってきてもらうよう頼んでから、受話器を置く。
「お前も昨日は此方に泊まり込んだと聞いたが……」
「あれやこれやと処理していたらいつのまにか夜が明けてましてね。宿舎に帰るよりも、此方で一晩過ごした方が休めると思ったので」
   ソファの上にブランケットがある。ムラト大将はそれを見て苦笑しながら言った。
「せめて仮眠室で休んだらどうだ。ソファでは身体が痛いだろう」
「今日はそうします。出来れば今日は宿舎に帰りたいのですけどね」
   実家から電話が何度か入っているようだった。おそらく祖母だろう。戦争が始まるということで、心配して連絡を寄越しているに違いない。一度連絡をいれて、俺のこともテオのことも心配は要らないということを伝えなければならない。

   執務室から給湯室に向かう。棚にあるカップを二つ取って、珈琲を注ぐ。将官達の部屋は随分静かだった。一人二人が残っているのだろうが、後は皆、各部署を走り回っているのだろう。
不意に此方に近付く足音が聞こえてくる。顔を上げると、テオの姿が見えた。
「兄さん。ムラト大将は今何処にいるか解る?」
   書類を片手にムラト大将の居所を尋ねるということは、また案件が舞い込んだのだろう。成程、これではムラト大将は休む暇も無い筈だった。
「俺の執務室に居る。その書類は急ぎか?」
「出来れば早急に」
   二つのカップを持っている俺の代わりに、テオが執務室の扉を開ける。ムラト大将は作戦案を記した紙を見つめていた。
「ムラト次官。此方の書類に眼を通して頂けますか?」
   テオは改まった様子でムラト大将に告げる。ムラト大将は解ったと応えると、作戦案を机の上に置き、テオに向かって手を伸ばした。それにさっと眼を通し、テオに二つの質問を投げかける。各師団への予算配分に関する書類だった。ムラト大将は胸元からペンを取り出すと、さらりと書類に文字を書き付け、最後に署名を施した。

   この事態にあっても滞りなく、また的確に処理が進むのは、ムラト大将のおかげだと思う。こうした事務処理のひとつひとつを全て頭にいれて操作しているのだから、並大抵の人間では勤まらない。長官にはやはりこの人の方が何倍も相応しかったのではないかといつも思う。

「これを各師団長の許に送ってくれ」
   テオは返事をして、執務室を退室する。そのテオと入れ替わりに、ハリム少将がやって来て、ムラト大将に向かって言った。
「ムラト次官。サダト大尉が食事を持って来ました」
「ああ。ありがとう」
   ムラト大将は立ち上がり、ハリム少将から紙袋を受け取る。暫くこの部屋に居るから、急用の場合は此方に来てくれ――と言い置いて、扉を閉めた。


[2010.1.11]