私は道を間違えた。
   ずっと自分の欲していたものが眼の前に突然現れて、それに手を伸ばした。結果、確かにそれは私の手に入ろうとしている。それも私が考えていた以上のものとなって。
   私は次期皇位継承者となった。

   だが、この現状は私の望んでいたことだろうか?
   欲しいものを手に入れるために、私はたった一人の弟を切り捨てた。そして今、自分の主義を曲げようとしている。
   宰相となった時、私は心に決めていた。せめて私の在職期間中は戦争を起こさない――と。

   もし――あの時、別の道を求めていれば。
   皇女マリとの結婚を辞退し、宰相を辞していれば、少なくとも私は自分の信念を曲げることはなかった。少なくとも私は後悔せずに済んだ。
   私は酷く後悔している。たった一度の選択の過ちを。
   後悔しても今となっては、もう何もかもが遅すぎる。遅すぎた。このことに気付くのが――。



   皇帝が軍務省での会議に突然現れて、戦争開始を宣言する言葉を述べたということは、瞬く間に各省に広まっていった。各省の長官が揃って宰相室に真偽を確かめにやって来た。そのため、翌日には彼等を会議室に集め、事の次第を説明し、戦争に向けての準備を始めるよう伝えた。政府は戦争に向けて動き出していった。

   毎日、新トルコ共和国側の情勢が伝えられる。新しい情報に耳を傾け、軍務省の作戦会議にも出席する。皇帝の一言があってから二週間の間は、朝から晩まで宮殿に篭もりきりだった。
「済まないが、今日は休ませてもらう。急があればオスヴァルトに此方に連絡するように伝えてくれ」
   そうした忙しい生活が続いたためだろう。体調管理には充分に気を付けていたのに発熱してしまい、今日はどうにも動けなかった。宰相室に連絡をいれ、秘書官に休む旨を伝えて、今日一日ゆっくりと身体を休めることにした。
   昨晩、帰宅してから身体に変調を来した。熱が出る前兆だ――と解った。すぐに横になったが、夜半から熱が上がる一方で、今も下がらない。医師に解熱剤を投与してもらっても、熱は一向に下がらなかった。
「偶には良いお休みですよ。フェルディナント様」
   額に乗せたタオルを交換しながら、ミクラス夫人が言った。この二週間、睡眠時間もあまり取れなかったことを思うと、ミクラス夫人の言葉も尤もなことだが、今が非常事態であることを考えれば、いつまでもこうして暢気に眠ってもいられない。いつも重要な時に倒れてしまう自分の身体が情けなかった。
「明日には宮殿に行かなければならない。今日中に熱が下がってくれれば良いが……」
「無理をすればまたお身体に響きます。今は何も考えずゆっくりお休み下さい」
   この状態で焦っても何も出来ない。ミクラス夫人の言う通り、今は兎に角、身体を休めておかなければならない。じっとしていると、やらなければならないことばかりが気にかかる。この身体では何も出来ない――と自分に言い聞かせて、眼を閉じ、何も考えないようにした。久々に十数時間も眠った。


   だが、翌朝になっても熱は下がらなかった。
「会議のある日に休む訳にはいかんな……」
   今日は各省の長官と皇帝とが一堂に会する重要な会議がある。宰相であり、また戦争の総指揮を執る立場にあることからも、この会議を欠席する訳にはいかなかった。
   会議だけ出席して、すぐに帰宅しよう。そう考えて起き上がると、酷い眩暈に見舞われた。頭を抱え、暫く眼を閉じてから深呼吸を繰り返す。眩暈が治まったところで、左腕に施された点滴の針を抜き、ベッドから出た。着替えを済ませて、身支度を調え、階下に降りる。ミクラス夫人に見つからないように、そっと玄関へ向かった。
「フェルディナント様……!」
   廊下を歩いていたフリッツが此方に気付いて駆け寄って来る。人差し指を口元に添えて、静かにするよう促した。フリッツは事情を察した様子で、小声で言った。
「そのようなお身体でお出掛けになってはいけません!寝室にお早くお戻りください」
「二時間……いや、三時間で戻って来る。今日の会議はどうしても抜けられない。ケスラーを呼んでくれ」
「しかし……」
「頼む。無理はしない。この会議が終われば少し休む時間も取れる」
   フリッツは困ったような表情をしていたが、解りましたと告げ、ケスラーの許に向かった。玄関から外に出て、ケスラーを待つ。程なくして車庫から出て来た車が私の前に停まった。
「急に済まない。宮殿に向かってくれ」
   今は午前8時40分だから、会議の開始の9時には間に合う。ケスラーは宮殿入り口のすぐ脇に車を停めてくれた。到着したのは午前8時55分だった。会議の資料は鞄の中に入っている。今日の会議室は宰相室のすぐ隣だったから、そのままそちらへと向かった。



   部屋に入ると、既に各省の長官達が集まっていた。オスヴァルトもその場に居た。彼は驚いた眼で此方を見、側に歩み寄ると大丈夫ですかと囁く。彼に頷いて、それから椅子に腰を下ろした。
   やがて皇帝が入室する。立ち上がって出迎えると、皇帝は全員に労いの言葉をかけた。会議では開戦までの経緯がヴァロワ卿から説明された。財務省は算出した戦時予算を報告した。此方の試算額と大して変わらず、皇帝はそれらを承認した。
   そして会議は多岐に亘る内容が報告され、いくつかの案件が皇帝によって承認された。11時30分には恙無く終わり、解散となった。各省の長官が此方に一礼して、部屋を去っていく。ヴァロワ卿は最後まで残り、皆が居なくなってから、私の側に来て大丈夫かと問い掛けた。
「これから帰宅します。どうしてもこの会議には出席したかったので……」
「遠くから見ていても酷い顔色だ。すぐに帰った方が良い。車はもう呼んであるのか?」
「これから迎えに来てもらいます。それまでは宰相室に」
   席から立ち上がると、途端に足下がふらつく。机に手をつくより早く、ヴァロワ卿が腕を掴み身体を支えてくれた。
「……身体が随分熱いじゃないか。熱が下がらないのか?」
「疲れが出たようです。こんな時にすみません」
「宰相。貴方は無理をしないほうが良い。今日の会議の結果も、私から報告するつもりだった」
「会議の内容というよりは、此処に居ることに意味があるのですよ。……戦争の総指揮を務める人間が御前会議を欠席する訳にはいきませんから」
   ヴァロワ卿と共に会議室を出て宰相室へと向かう。部屋に入ると、オスヴァルトがすぐに座を勧め、屋敷に連絡をいれたことを告げた。
「済まない。迷惑をかけたな」
「会議中に執事のフリッツ氏から此方に連絡が入ったのですよ。会議が終わり次第、車を向かわせるから連絡が欲しい、と。五分前に連絡をいれましたから、もうじき到着なさるかと思います。閣下、どうかごゆっくりお休み下さい。 何かあればすぐに此方から連絡をいれますから」
   オスヴァルトの言う通りだ――とヴァロワ卿も笑って言った。五分程休んで、執務をオスヴァルトに任せて宰相室を後にした。ヴァロワ卿が外まで送ってくれた。ケスラーは既に到着していて、私の姿を見つけるなり、車から降りて来た。車に乗ると、どっと疲れが押し寄せてきて、シートに身体を凭れさせて眼を閉じた。


[2010.1.9]