風が少しずつ暖かさを帯びてくる。雲間から降りてきた光の筋が、窓から足下に伸びていた。何となくそれを見ながら、署名を終えた書類を横に追いやる。
「レオン」
   不意に扉が開いた。ムラト大将だった。扉を開けすぐに声をかけてきた様子から察しても、何らかの事態が生じたに違いない。ムラト大将は部屋を一瞥すると、話がある――と言った。二人きりで話がしたいということだろう。
「解りました。奥へ」
   椅子から立ち上がり、長官専用の執務室へと移動する。いつもは軍部本部の将官達を交えて話をすることが多いが、極秘の案件や重要事項の申し渡しといったことは、まずムラト大将と二人で話をする。ムラト大将の様子から察しても、余程重大なことが生じたのだと思った。

「帝国に不穏な動きがある」
   長官用の執務室に入り扉を閉めると、ムラト大将は少し声を潜めて言った。
「やはり此方に侵略してきますか」
「どうも上層部が割れているようだ。戦争推進派と戦争反対派、数の上では反対派がまだ多数を占めているが、推進派には軍務省の大物が首を揃えている。確認はまだ取れていないのだが、その推進派達は既に戦争準備を開始しているとも噂されている」
「宣戦布告も無く戦争を嗾けてくると?」
「それも全くは否定出来ん。今は反対派が推進派を抑えているが、いつ形勢逆転するか解らないそうだ。宮殿内では推進派と反対派が常に睨み合っているという。推進派の中心人物は軍務省のかの老体だ。お前も名前は知っているだろう。フリデリック・フォン・シェリング大将。皇族とも縁ある人物だ」
「……帝国の守旧派の急先鋒でもある人物ですね」
「そうだな。戦争推進派は守旧派と読み替えても良い。フリデリック・フォン・シェリング中心に軍備が進められているという噂がある。反対派の中心人物はあの宰相だがな」
「フリデリック・フォン・シェリングの暴走を宰相でさえ止められないということですか」
「ある意味、あの宰相だからまだ戦争に踏み出していないのかもしれんぞ。陸軍部の長官も宰相側の人間だから、二人でやっと押し止めているという状況なのかもしれない」
「確かフリデリック・フォン・シェリングは陸軍部の人間です。それなのに陸軍部の長官が今になって抑えられないということは、何か原因でも……」
「そのことなのだがな、やはり何処にも前海軍部長官の名前が出て来ないんだ」
  前海軍部長官――ハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン大将の名前が消えたのは数ヶ月前のことだった。少し前に帝国軍務省との書簡のなかで、海軍部長官の名がクリスト・ヘルダーリン大将に変わっていることに気付いた。
  クリスト・ヘルダーリン大将は元々海軍部の次官だったから、ムラト大将はよく知った人物だった。しかし何故、中途半端な時期に長官が交替したのか、誰も真相を知らなかった。帝国の情報を此方にもたらしてくれる貿易商のギルバートですら、詳細な情報を掴めないでいた。ただひとつ奇妙な噂があるのだと、彼は言っていた。


  帝国の宮殿内では、第三皇女マリと軍務省海軍部長官のハインリヒ・ロイ・ロートリンゲンが恋仲であったのではないかという噂が密かに囁かれているらしい。しかし、皇帝がそのことを許さず、そればかりか、彼の兄であり宰相のフェルディナント・ルディ・ロートリンゲンを皇女マリの結婚相手と決め、ハインリヒ・ロイ・ロートリンゲンを更迭した。そのことにより、皇女マリは失意のままに姿を消したのではないか――。帝国の宮殿内ではそうした憶測が飛び交っているようだった。
   帝国が二分しているという事態にあって、ハインリヒ・ロイ・ロートリンゲンの名前がまったく出て来ない。そのことに非常に違和感を覚えた。元々、彼は進歩派として陸軍部長官と共に軍務省を強固に統括していた。旧領主層の出身でありながら、進歩的な思想を持つ人物として、彼を支持する者も多かった。彼が今、軍務省に在籍していないとしたら、帝国軍務省は統括の支柱を失ったのと同じと言える。

「そうなると、やはりギルバートの言っていた噂は本当なのでしょうか」
「そうだな……。ここ数ヶ月ぱたりと名前を聞かないのも本当に奇妙なことだ。何か失態をしでかして降格処分となったのか、それとも退役したか」
「……何か生じて職務を追われたとしたら……、宰相の発言力が弱まっている理由も頷けますね」
「成程。それで今現在、分裂状態にある、か」

   帝国の宰相は進歩派の急先鋒でもある。旧領主層でありながら、帝国の旧領主層の特権を切り捨て、専制的な体制を改めて民主化を進めようとしている。彼が次期皇位継承者となったことをギルバートから聞いた時には驚いたが、同時にそのことは諸外国にとって悪いことではないかもしれないと思えた。
   宰相が評判通りの人物ならば、他国間の協調も考慮してくれるだろう。そして彼ならば、侵略戦争という愚行に走ることも無いかもしれないと思っていた。

   しかし、それは彼が守旧派を抑えることが出来るという前提があってのことだった。守旧派を抑えられないのなら、彼が皇帝になっても意味は無い。帝国は今と変わらない。
   そしてもう一点、もし現皇帝が守旧派達の意見を取り入れ、侵略戦争に踏み切ろうとしたら宰相はそれを抑えられるだろうか。


「ムラト大将。ただちに国境警備の強化を各警備隊に伝えて下さい。少しでも異変があれば本部に知らせるように、と。それと今から将官を集めて会議を開きます」
「国境警備の強化は既に申し伝えたところだ。将官は今、テオとラフィーが不在で夕方になるまで戻らない」
「ではその二人には私が後から伝えます。その他全員、至急部屋に戻るよう伝えて下さい」
   ムラト大将は解ったと返し、すぐにこの執務室を出た。


   戦争はきっと避けられない。
   いずれ帝国の宰相は旧領主層を抑えられなくなる。これまでも帝国内で進歩派と守旧派の対立があったが、今程対立することもなかっただろう。何よりも宰相の弟が海軍部長官から解任されたことが、宰相の立場を不利にしているように思えてならない。

   フリデリック・フォン・シェリングが水面下で軍備を進めているという事実が本当ならば、あとは皇帝から許可を得るだけで開戦が可能となる。皇帝はそれを拒んで、宰相の意見を尊重するだろうか。

   宰相は皇帝から絶大の信頼を得ていると聞く。ならば、宰相の意見を取り入れてくれるだろう。
   しかしそれならば何故、宰相の弟が突然解任されてしまったのか。宰相の抱く理想と同じものを皇帝も描いているとしたら、宰相と同じ思想を持つ宰相の弟も、重用されていてもおかしくない。そうなると、宰相と皇帝の間にはその追求することに関して隔たりがあるのではないだろうかと思えてくる。

   皇帝の意図がどうしても見えてこない。皇帝は領土拡大を望んでいるのだろうか、それとも宰相と同じように無益な戦争には反対なのだろうか。もし後者ならば、フリデリック・フォン・シェリングが水面下で軍備を進めることなど不可能な筈だ。
   帝国が侵略してくる可能性は高い。その前に、此方も準備を整えておかなければ――。



   執務室を出て、将官達の集まる部屋に戻ると、同時に部屋の扉が開いて少将が二人戻って来た。此方に向かって敬礼し、席に着く。これでラフィー准将とテオ以外の面々が揃った。
「急に会議を設けて済まない。扉と窓は閉めてくれ。そしてこれから話すことはまだ内密にしてほしい。今、此処に居ないラフィー准将とテオには私から直接伝える」
   全員が一斉に返事をする。皆の注目が集まるなか、帝国の状況についてまずムラト大将から話してもらった。それから戦争となる可能性があることを此方から伝える。

   全員が一斉に静まりかえった。俺もそうだが、この部屋に居る将官達は皆、戦争を経験したことのない世代だった。万一の有事の際の国防に関して意見を交わし合う。避難場所と補給の確保、この二点はすぐに準備を始めることになった。
   季節の移ろいよりも、戦争の足音が急速に近付いている――そんな気がした。


[2009.12.13]