「宮殿に行った折、久々にフアナ様の姿を拝見した」
 皇女フアナは第一皇女で、私と同じように先天的に虚弱な体質であることから、あまり表に姿を現さない。27歳だが、年齢を経るにつれて身体が環境に慣れていった私と違って、殆ど外に出ることが出来ない。行事に参加することもなく、王宮の一角で静かに暮らしている。ロイが姿を見たということは、表に出ていたということで、随分具合が良いのだろう。
「珍しいな。私はここ半年ほどお姿を拝見していないが」
「何とかという療法が良かったようだとエリザベート様が仰っていた。……それにしても最近また先天的虚弱が増えているようだな。環境が悪化している証拠らしいが……」
「人々の環境に対する危機感が薄れつつあるということなのだろう。今度の国際会議で議題に上がるかもしれんな。……ところでエリザベート様にもお会いしたのか」
「ああ。マリと一緒に居たから少し話を」
「皇帝への報告を先に済ませてきたとはお前にしては殊勝なことだと思ったら、マリ様にお会いするためか」
「マリから偶に連絡は来ていたとはいえ、ひと月も会っていなかったのだぞ」
 ロイは肩を竦めて言う。
 ロイは第三皇女マリと親密な関係にある。第三皇女マリは23歳で、病弱な第一皇女と違い、快活な女性だった。快活という意味では、皇女マリの右に出る者は居ないだろう。宮殿は皇族の居住区と政務を行う行政区に分かれていて、皇族は皇帝を除けば、行政区に足を踏み入れることはあまりない。しかし皇女マリだけは行政区を自由に歩き回る。そのため、お付きの侍女が探し回るということはいつものことだった。
 ロイと皇女マリが初めて出会ったのも宮殿の表側――つまり、行政区にある中庭だったのだという。ロイはまさか皇女が行政区に居るとは思わなかった。皇族の姿は皇帝と皇后以外、メディアに上ることはない。宮中での行事に参加しても、当時、皇女マリは未成年であったため、そうした場に姿を現すことはなかった。そのため、ロイは中庭に居た皇女を官吏の一人だと思ったらしい。其処で言葉を交わしたのをきっかけに、二人は親密になり、ロイが今度は外で会わないかと誘ったときに、皇女マリはその身分を明らかにしたのだという。その日の晩、宮殿から帰るなり、ロイが深刻な面持ちで私の許を訪れた。皇女を好きになってしまった。これはまずいよな、ルディ――と。
 初めてそれを聞いたとき、些か驚いたが、ロイの様子から本気だということは良く解った。皇女マリは皇位第三継承者に当たる。第一継承者は皇女フアナとなっているが、病弱のため、第二継承者である皇女エリザベートが皇位に就くことになるだろうことは誰の眼にも明らかだった。皇女エリザベートは頭脳明晰の誉れの高い人物で、身体も丈夫であったから、彼女が皇位を継承することはほぼ間違いないだろう。だからといって皇女マリに継承権が無くなる訳ではない。 皇女エリザベートが結婚し子供を授かるまで、皇女マリは第三継承者という重大な立場に置かれる。
 そして、皇帝は家名に拘る人物ではないが、守旧派は身分を重要視する。その意味ではロートリンゲン家の人間であるということは有利に働くだろう。新ローマ王国時代から、ロートリンゲンは八代に亘り、皇帝に仕えてきた。皇族に連なる者に加えて新ローマ王国時代からの従者――多くは武門――にはいくつかの特権が与えられており、ロートリンゲンもそれを得ている。帝国のなかでは名家といっても差し支えないだろう。もし皇女マリとロイが結婚するということになっても、さしたる問題は生じないだろう。
 まだ気の早い話だが其処まで考えてから、ロイに約束した。二人の仲を祝福する――と。二人は順調に交際を続けており、仲睦まじい様子はロイから話を聞くだけでも解る。二人の親密な様子を見るに、そろそろ皇帝の耳にも入れておかなければならないだろう。
「ひと月の任務、御苦労様、ロイ。暫くはゆっくりと身体を休めると良い」
 ロイは微笑して、ソファから立ち上がる。その時、開け放った窓からびゅうと強い風が吹いて、机の上の書類を飛ばした。散らばったそれを二人で苦笑しながら、拾い上げた。



「閣下。此方の処理を早急に頼みたいと、たった今司法省長官より申し入れがありました」
「解った」
 顔を上げ、一つ年下の部下から書類を受け取る。ふた月前に起こった事件の裁判内容だった。一人の男が専制君主制の廃止を訴え、改革を行うために地下で武器製造を行った。政治に絡む事件なので、当初から此方にも書類が回されていた。
 男の名をアラン・ヴィーコと言う。年齢は39歳で、前科も無い。彼は逮捕されてからも自分の主張を繰り返した。最早、専制君主は過去の遺物であり、国民は嘗てのように己の意志で選んだ代表者によって政治を行う民主政治でなくてはならない。武器を製造していたのは、強さなくして専制政治を打倒することは出来ず、また支持者も得られないからだ――と。彼の発言は一度この耳で直に聞いたことがある。彼の求める国家像は少々理想的すぎるきらいがあるが、筋道の通った正論ではあった。今、この帝国は議会があるといっても、内務省の一組織として形ばかりあるに過ぎない。議会で決めたことは、各省の長官が集う会議で議題となり、其処での審議を許に皇帝と宰相が決定する。議会を通せば時間もかかることから、各省の長官の提案が宰相を通し、皇帝の勅許を得るという形を取らなければならない。
 だがこの帝国もいずれは民主政治の道を辿ることになるだろう、否、そうならなくてはならないと私も感じている。だが今は皇帝や守旧派の権威が強い時期だった。特に皇帝の権威は、名君と称えられているだけあって、初代皇帝と同じぐらいにまで高まっているのではないかと思う。今は民主化を唱えるよりも、皇帝を支えつつ、彼等のような運動家を支えられるような体勢を整えたほうが良い。それがいつかきっと、民主化への道となる。
 そう考えると、裁判長の下した国家転覆罪および皇族への不敬罪という罪状の適用は重すぎる。このままでは、彼は終身刑が言い渡されることになるだろう。別に添えられていた書類を捲ると、司法省の長官に副長官、それに国家公安長が死刑を求めていた。宰相である私が此処で彼等の意見を認めれば、アラン・ヴィーコはすぐに死刑台に送られるだろう。
「オスヴァルト。陛下の許に行ってくる。書類の催促が来たら、少し待って貰ってくれ」
「承知致しました」
 司法省の長官や公安長が揃って死刑を求めている案件を、私一人の権限で覆すことも出来る。だが、そうしては内政の和が乱れてしまう。それよりは先に陛下の意見を伺ったうえで、死刑は不適当だと此方の意見を進言して、司法長官達の意見を遠ざけたほうが良いだろう。

 関連書類を持って、執務室を出る。官吏達が此方に気付くなり頭を下げる。皇帝の執務室はこの階の中央にあった。陽の射し込む長い廊下を歩いて部屋の前に来ると、衛兵が此方に向けて敬礼する。彼に軽く労いの言葉をかけてから、扉の呼び鈴を鳴らす。名を告げると、秘書官が扉を開けて、入室を促した。皇帝は持っていたペンを置き、穏和な笑みを浮かべた。
「失礼致します、陛下」
「其方も忙しいようだな」
「陛下には及びません。少々、ご相談申し上げたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?」
「構わぬ。何か厄介事でも生じたか?」
「先日、陛下に御報告申し上げた事件の裁判についてです。本日、司法省長官より罪状についての確認があったのですが……」
 皇帝はその話を思い出したかのように頷いて、死刑を求める旨の司法省側の意見に耳を傾ける。まずは此方の意見を述べずに、司法省の見解を纏めたものを報告することにした。皇帝はそれを聞き終えると、死刑か、と短く呟いた。
「新ローマ帝国にとり危険な思想を有した人物であるという見解は、私も司法省の者達と同じ意見です。ですが現在のところ、彼は人に危害を加えてはいません。武器を所有しそれを製造していたことは処罰に値しますが、その思想を理由に死刑に処しては、帝国は個人の主張を認めないと思想家達の抵抗も起きましょうし、国際的な非難も浴びることになりましょう」
「私も同感だ。体制を変えるために武器を所有していたということは、確かに国家を危機に陥れんとするがためだろうが……、まだ実行段階に移っていない以上、死刑は重すぎる。許可無き武器所有に関しての罪としては、どれぐらいの刑が妥当か」
「武器の密売・製造について罪を問うこととして、懲役三、四年が適当ではないかと思います」
「国家に対する危険思想に対しては?」
「此方も懲役三、四年といったところです」
 答えると皇帝は笑みを浮かべる。お前の中でもう答えは出ているのではないかと言いながら。
「私の一存で司法省の意見を覆すことは避けたかったのです。陛下から一言頂ければ心強いものはありません」
「解った。ではエルンストにその旨を伝えよう」
「陛下の御厚恩に感謝致します」


[2009.8.8]