皇女マリが失踪した。
   彼女の部屋のテーブルの上に、書き置きがあり、自分の意志で宮殿を出て行く旨のことが書かれてあった。このたびのことは自分一人の一存であり、誰も関与していない――、それはおそらく周囲の者を気遣ってのことだったのだろう。実際、誰も皇女マリの行き先を知らなかった。皇女にいつも仕えている侍女は厳しい尋問を受けたが、彼女も何も知らなかった。だが明らかなことは、皇女マリはロイの後を追ったのだということだった。

   もともと皇帝もそれを懸念し、皇女の身辺を常に見張らせていた。ところが、皇女はその隙を見つけて、宮殿を出て行った。護衛官達は皇帝から叱責を受けることとなり、そしてすぐに皇女の捜索を命じた。

   ロイの時と同じようにすぐに見つかると思われた。しかし、皇女は三日が過ぎ、一週間が過ぎても姿を現さなかった。事態を重く見た皇帝は、それまで皇女の失踪を極秘事項としていたが、国内外に報せ、捜査網を広げることとなった。ロイが追放された北の国境付近も捜索し、国境を接するビザンツ王国にも捜査協力を依頼した。だが、皇女マリの姿は見つからないままだった。

   そのなかで直接皇女に関係することではないが、私にとっては朗報がもたらされた。ロイに関する情報を得ることが出来た。
   ロイはビザンツ王国に入ったらしい。ロイのような男を目撃した、宿泊したという話をヴァロワ卿が教えてくれた。

「そうですか……。少し安心しました」
「それ以上の行方は解らないが、ハインリヒは今もビザンツ王国の何処かに居るのだろう。……尤も肝心のマリ様の行方が未だ掴めない。ハインリヒよりも目立ちそうなものだが……」
「周到にルートを考えていたのかもしれません」
   ヴァロワ卿はそうとしか考えられんなと頷いた。もしかしたら、ロイが追放された時から、皇女は宮殿を出て行くことを心に決めていたのかもしれない。そのために、皇位を私に譲位するということも早々に取り決めたのかもしれない。

   まさかそのようなことを考えもしなかった。迂闊だった。
   もし皇女が今、ロイと共に居るというのなら、それはそれで安心出来る。だが果たして、それほど簡単にロイと会えるだろうか。私でさえまだロイの居場所が把握出来ないというのに、皇女に何か宛てがあるとも思えない。ロイと一切連絡は出来ない筈だ。そうなると、やはり皇女はロイと会えていないということになる。

「しかし……だ、宰相。マリ様は国外に出たと思うか?」
「いいえ。私はそうは思えないのです。陛下の御命令で各国に通達はしましたが……、マリ様はまだ国内にいらっしゃると思います」
「やはりそうか。どれほど策を練っても女性の足でそう遠くは行っていないと思っていた。それに国境には警備隊が居る。女性が国境付近に居たとしたら、彼等は必ず見つける筈だ」
「ロイの後を追いかけたとして、北へのルートはふたつ。そのどちらも警備は厳しいですから、国境にすら近付いていないのではないかと……」
「意外にこの近辺に身を潜めているか、それとも……」
   ヴァロワ卿の言葉に無言で頷き応える。それを口にするのは憚られたが、もしかしたら皇女は既に生きていないかもしれないと考えていた。自ら命を絶つような女性ではないが、逃走中に何らかの事故や事件に巻き込まれることが無いとは言い切れない。
「今日まで見つからないとなると、その辺も考慮しなくてはなるまい。陛下には申し上げにくいことだがな」
   皇帝は信じないだろう。皇女の遺体に対面するまでは。
   そして出来ればそのような事態には至らないでほしいものだった。ビザンツ王国に渡り、ロイと行動を共にしていると思いたい。
「それから……、私がこうして皇女の捜索に奔走している間、省内では少々厄介な動きが出ている。フォン・シェリング大将とクライビッヒ中将、フォン・ビューロー中将――例のあの守旧派の三人だ。彼等が最近、不穏な動きをしているようだ。詳細は不明だが、このところ頻繁に三人で落ち合っているらしい。内務省の人間とも会っているとの話がある」
「あの三人が……。この時期に?」
「ああ。そして今現在、海軍の長官が不在だから、彼等の息のかかった人間を長官にしようと画策しているみたいでな。フォン・シェリング大将は自分が立ちたいようだが、彼は陸軍所属だから無理な話だ。フォン・ビューロー中将を大将に仕立て上げたとしても、長官の指名を受けるには大将となって5年のキャリアが必要だ。それでは遅すぎる。だから陛下に進上して異例の措置を講じるつもりなのかもしれない」
「フォン・ビューロー中将を昇格の上、長官に指名を、と?」
「ああ。そうなると私も動き辛くなる。海軍はハインリヒが率いていたこともあって、現在でも将官には進歩派が多い。だから私も指揮しやすいのだが、今後彼等のうちの誰かが長官となると此方も少々やり辛くなる。只でさえ、彼等は私の命令をきかないのだからな」
   ヴァロワ卿の気持は解る。彼は守旧派でもなければ、旧領主層でもない。そのため、そのどちらでもあるフォン・シェリング大将は同級でもあることから彼を疎んじてきた。長官となるには実績が必要となる。実績だけでいえば、ヴァロワ卿の方が遙かに上だが、軍務省において旧領主層ではない者が長官となるという事例がそれまで無かった。

   軍務省は、帝国成立当初に尽力した家を中心に構成されてきた。今でも旧領主層が多く在籍している。そのため、旧領主層の生まれでないヴァロワ卿の指名の際は随分揉めた。家名よりも実績を重んじる皇帝の命令によって、ヴァロワ卿が陸軍部の長官となったが、彼を排斥に追い込もうとする旧領主層の声が絶えたことは無い。

「今でも適任は見つかりませんか?」
「クリスト・ヘルダーリン大将を推したいが、本部に戻ってまだ日が浅い。彼以外では、海軍部はここ数年で退役した者が多いから大将級で5年のキャリアを持つ人間も居ない」
「ヘルダーリン大将……。そうですね。やはり彼が適任なのでしょうね」
「中立派で保守派と進歩派の意見、両方をくみ取ることの出来る貴重な人材だ。ハインリヒも評していた程の人物でもある。彼を次官に推薦したのはハインリヒだからな。能力は長けている」
「では何とか特例措置として彼が長官に指名されるよう手立てを講じましょうか?彼ならば、陛下も納得していただけるでしょう」
「そうしてもらえるとありがたい。しかしどちらにせよ、今後は軍務省が荒れそうだ。これまでも何とか彼等を抑えてきたが、流石に私も限界の域に達している。新トルコの体制移行の発表以来、彼等がこれまで以上に過激になっていてな」
「そうですね。彼等によって侵略はしないという陛下の御意志を曲げられなければ良いのですが……」
「やはり宰相もそう思うか」
「フアナ様とエリザベート様が亡くなられてから、陛下は変わってしまわれた。これまでは帝国の民を第一に考える御方でしたが、昨今では皇家の存続のことしか考えていないように思えます。マリ様が行方不明となり、存続の危ぶまれる今、守旧派の声に従って領土拡大を宣言しかねないかもしれないとは危惧しています」
   ヴァロワ卿は苦々しい表情で頷いた。


   守旧派が侵略を提言しようとする目的は解っている。帝国の後継者が不在ということは、対外的にも不利な状況を作り出す。帝国の地盤の脆弱さを露呈することになり、この機会に領土を拡大しようとする近隣諸国が現れてくる。これまで帝国の歴史において、後継者が不在ということは無かった。皇帝には必ず子がいた。皇妃に子供が恵まれないこともあったが、その場合、皇帝は側室を得た。そうして直系が存続し、傍系に継承権が渡ることも無かった。

   しかし今回はそれを維持できない状況に陥っている。皇女マリが見つからなければ、直系の存続はありえない。傍系に継承権を譲るしか皇家存続の道は無い。そうなると、傍系として名があがるのは、おそらくフォン・シェリング大将の親族だ。

   現皇帝には弟がいる。フォン・シェリング大将の姉は皇弟ヨーゼフと結婚している。皇弟ヨーゼフは現在、フォン・ルクセンブルク家を名乗っており、息子が二人いる。長男フレディは35歳で内務省に勤めている。次男のハロルドは30歳で教育省にいる。皇弟ヨーゼフは62歳で、それほど身体も丈夫でないことから、彼は重要な行事以外で外に出て来ることは殆ど無い。
   それを考慮すると、フォン・シェリング大将は彼の甥にあたるフレディを次期皇帝として推薦するだろう。フレディ・フォン・ルクセンブルクはフォン・シェリング大将と意見を同じくする保守派で、もし彼が皇帝となった場合には今まで私が行ってきた政策のいくつかは撤回されることになるだろう。

   だが、皇帝に最も近い血縁といえばフォン・ルクセンブルク家の人間ということになる。皇帝は次期継承者としてフレディに継承権を与えるだろうか。皇帝と皇弟ヨーゼフとの仲も悪くはない。私自身、皇弟と話をしたことがある。温厚な人物だった。
   しかし、その息子についての評判はあまり良いものではない。彼と直接話をしたことは無いが、嘗て同じ内務省に在籍していたオスヴァルトがよく言っていた。フレディ・フォン・ルクセンブルクはひと時代遅れた思想の持ち主だと。


[2009.11.14]