「……旧領主層であるし、多少の生活のずれはあるだろうことは予想していたが、士官学校で調理のひとつふたつぐらい習っただろう……」

   アジア連邦にやって来て、フェイ・ロンの宿舎に案内され三日が経った。フェイはこの三日間、ビザンツ王国での任務報告やら俺の将官申請といった手続き等で忙しく、宿舎に帰ってくることは無かった。
   フェイの宿舎は高官にしては質素な宿舎で、寝室が2つにリビング、ダイニング、それに応接室と浴室があるだけだった。亡命申請の許可が下りるまで外に出ては駄目だと言われたので、この三日間、狭いこの部屋のなかに閉じこもっていた。食事も自分で調達しなければならなかった。一応、自分で作ってみようとしたが、何をどうして良いかも解らず、仕方無くこの部屋に配達してもらった。三日ぶりに帰宅したフェイは、ダイニングの水を流した形跡の無いことに気付き、呆れた様子で言った。

「悪いな。私は士官学校でも上級官吏コース所属だったから、食事の管理は下士官の役目とされていたんだ」
「……上級官吏といっても士官の始めは部隊の末端に組み入れられるもの……ああ、そうではないのか。幼年コースから入っているのか」
「ああ。15の時から士官学校に入っている」
「となると、軍に所属した時から佐官級……大佐だった訳だな」
「その通りだ。よって料理は出来ない」
「……そんなことで堂々と胸を張るな。それとプライベートでは堅苦しく呼ばれるのは好まないので、フェイでもロンでも好きに呼んでくれ」
   フェイはネクタイを解きながらそう言った。アジア連邦では軍人であっても毎日軍服を着る必要は無いのだろう。帝国では軍人は軍服着用が義務づけられていたので、不思議な感じがした。
「ではフェイと呼ばせてもらう」
「俺はロイと呼んで良いか? ロートリンゲンは矢鱈長いし、ハインリヒとはこれまた呼び辛い」
   ルディとはミドルネームで呼び合っていた。他には亡き母がそう呼んでいた。士官学校に入る前のジュニアスクールで出来た友達はそう呼んでくれた。ロイという名は俺にとって親しい間柄の人間が呼ぶ名だった。
「駄目か?」
「いや……。ロイで構わない」
「安心した。俺は家では寛ぎたい性質でな。ところで、亡命の手続きに少々時間がかかるそうだ。極秘で進めているせいもあるが、帝国の軍務長官の座にあった者ということで上方も戸惑っていてな。話は通るようだから心配は要らないが……。引き続き、此処で待機してもらいたい」
「解った」
「……しかし俺もこうして留守がちなことが多い。家事が一切出来ないとは困ったものだ。今迄一体どういう生活をしていたんだ」
「邸には使用人が居る。専属の料理人も居たから、生活に不便は無かった」
「庶民の俺とはまるで感覚の違う話だな……。流石は帝国の旧領主層というか……」
「そうは言うが、旧領主層にしてはうちは使用人の少ない家だったぞ。庭師や護衛も合わせて10人しか居ないからな」
「……それだけ居れば充分だろう……」
「そうか?」
「……で、話を戻そう。この三日間の食事を全部電話で注文したということは、今日の夕食ももう頼んだのか?」
「いや、まだだ。これから注文しようかと思っていたところだ」
「解った。それなら良い」
「……どういうことだ?」
「食事は俺がこれから作る。亡命の許可が下りるまでは外食も許されないからな」

   フェイは一旦自分の部屋に行き、五分と経たぬ間に戻って来た。その時にはもう着替えを済ませ、シャツにジーンズという軽装となっていた。それからダイニングへと向かう。冷蔵庫から野菜や肉を取り出して、それを手際よく洗って切り始めた。
「何か手伝おうか?」
「そうだな。二人で支度した方が早いだろう。其処の戸棚の一番下に米が入っている。洗ってくれるか?」
   戸棚の下を開くと、大きな壺があった。そのなかに米が入っていた。フェイが分量を教えてくれ、その通りに米を量ってからシンクに向かう。当然、こういうものは綺麗に洗った方が良いに決まっているから、洗剤を使った方が良いだろう。
「ロイ! 何を入れるつもりだ!?」
   手許にあった洗剤を手に取ると、フェイは慌てた様子で俺から洗剤を奪った。
「食品を洗剤で洗っては駄目だ! 米は水で洗えば良いんだ!」
「それだけで良いのか?」
   フェイは大きく頷いた。それを聞いて、水道の蛇口を捻り、米を入れたボウルのなかに注ぎ入れる。そうして浮いてきた米を何粒か掬い丁寧に洗っていると、フェイは呆れた顔で俺を見た。
「何だ? 違うのか?」
「……ロイ。今日は其処にでも座って見ていてくれ……。全部、俺がやるから……」
「しかし一人では大変だろう」
「俺はいつもやっているから大丈夫だ。今日は食材の扱い方とか、コンロの使い方を見て憶えてくれ」
   フェイの側でその様子を観察していると、手際の良いことに驚いた。米をさっと洗い、それを水に浸けたまま、今度は野菜と肉を切り刻む。鍋に野菜と水を入れてコンロに火を入れる。その合間に冷蔵庫から何か取り出す。ひとつひとつ無駄の無い動きだった。
「凄いな」
「俺は一人暮らしが長い。大学に入ってからはずっと一人暮らしだったからな」
「大学……? フェイは士官学校を卒業したのではないのか?」
「ああ。俺は一年早く卒業して、国家公務員の上級試験を受けた。そして軍務省に配属されたという訳だ。だから、実戦経験も無く幹部席に居る。その証拠に俺には軍での階級は無い」
「そうだったのか……」
「しかし、そういう経歴だからいつまでも軍務省に配属されている訳でもない。外務省に異動となることもあるだろう。まあ当分は軍務省配属だろうが」

   帝国では、軍人は必ず士官学校を卒業していなければならなかった。アジア連邦と随分違う。また、帝国では士官学校の上級コースを卒業していなければ、将官となることは出来ない。また、帝国の士官学校は上級コースと一般コースとに分けられていて、高校を卒業した者が入学する。謂わば士官学校は大学のようなものだった。
   そして、上級コースのなかに一部特殊なクラスが含まれている。それが幼年コースと呼ばれるエリート教育機関だった。幼年コースはジュニアスクールを卒業してすぐに士官学校に入学する。高校に進まず、その幼年コースに入る者は年に10人も満たない。試験や体力審査が極めて厳しく、幼年コースから士官学校に入ることが出来た者は、将来の出世が約束されたと同じものだった。卒業と同時に大佐となることが出来る。

   俺は父親に強制的に勧められて高校進学を諦めさせられ、幼年コースの試験を受けた。その結果、主席で合格した。幼い頃から父に厳しい教育を受けてきたのだから、受かるのは当然といえば当然だった。家族全員が喜んでくれたが、俺は高校に通って普通の学生生活を送りたかった。大学にも行きたかった。
「ロイ。テレビを付けてくれるか?」
「解った」
   テーブルの上にあったリモコンを取り上げて、スイッチをつける。キャスターがニュースを読み上げていた。
「聞き忘れていたが、好き嫌いはあるのか?」
「いや、無い」
「意外だ。我が儘放題に育ったにしては。好き嫌いは無いのか」
「教育係のミクラス夫人が五月蠅くてな。徹底的に好き嫌いを直された」
「……教育係まで居たのか……」
   ニュースはアジア連邦の――国内のニュースを伝えていた。議会で法案がひとつ可決されたというニュースに、此処が帝国でないことを思い知らされるような気がした。
「これをテーブルに運んでくれ」
   野菜と肉を炒めたものは食欲をそそる良い香りを放っていた。フェイに頼まれるまま小皿を出したり、料理を並べたりする。
「箸は使えるか?」
「ああ、それは大丈夫だ」
   暫くすると全ての料理がテーブルに並んだ。フェイが器用なのか、それとも普通はこれぐらいの料理が出来なければならないのか、野菜と卵のスープに炒め物、海老のチリソースといったものがあっという間に出来上がった。
「口に合うかどうか解らんが、出前よりは増しだろう」
「ありがたい」
   テーブルの席に腰掛けたところで、ニュースが国外のニュースに移った。テレビを付けたままでも良いか、と問うので頷き返す。新ローマ帝国、という言葉が耳に入って来て思わず手を止めた。
「気になるか?」
   気にすまいとしてもやはり気にかかる。新聞を読んでも帝国の記事は嫌でも眼につく。


「新ローマ帝国皇室の第三皇女であり、次期皇帝のマリ皇女が行方不明という新たな情報が入りました。詳細がわかり次第、詳しくお伝えします」


   マリが行方不明――?
   馬鹿な。何故――。


「帝国の皇室は祟られてでもいるのかな。第一皇女と第二皇女が立て続けに亡くなって、今度は第三皇女が行方不明か。……ロイ?」
「……あ、ああ……。……フェイ、この情報を詳しく調べることは出来るか……?」
「明日には詳細が解るだろう。……ああ、そうか。第三皇女と宰相は婚約しているのだったな」
   帝国で何があったのか――。
   ルディと正式に婚約発表したという話はビザンツ王国で聞いた。それから間もない今、一体何があったのか。
「ロイ。変だぞ、お前。皇女の話で何故そんなに動揺する?」
「第三皇女は……マリは、俺の恋人だ」

[2009.11.8]