「お客さん、少し飲み過ぎじゃないかね。ここ連日ずっと通い詰めて最後まで飲んでいるじゃないか」
「……金が不足か?不払いは無い筈だが」
「そうじゃない。うちとしては店の売り上げに貢献してくれて嬉しいが、連日こんなに酒を仰いでいたら、身体を壊すと言ってるんだよ」
   店主は心配げに話しかけてくる。人の良い男なのだろう。しかしそれは今の俺にとっては、面倒な存在でしかなかった。
   今はただ、酔いたかった。
   だが、前後不覚になるまで酔いたいのに酔えない。酔って自分すら捨ててしまいたいのにそれが出来ない。ふわりとほろ酔い気分になると、マリのことを思い出す。共に逃げた二日間のことを鮮明に思い出す。いくら酒を飲んでもそれらを忘れることも出来なかった。
「何があったか知らんが、自分を粗末にしちゃ駄目だ。今は辛くても将来には必ず良いことがある」
   この店の店主は俺が此処に来た日から、何度となく声をかけてきた。今日はもうそろそろ閉店なのだろう。先程までは騒がしかった店内も、今は斑にしか客が残っていなかった。
「良いこと……か……」
「ああ。酒は楽しんで飲むものだ。自分を苦しめるために飲むものじゃない」
   恋人を失い、追放を処せられた人間に、良いことなどある筈が無かった。
   ビザンツ王国に入り、どのくらいの日数が経ったのか解らない。今が何月何日かも興味無かった。これから先のことなど考えることもなかった。
   もう何もかもどうでも良かった。





   帝国の国境で拘束を解かれ、そのまま北に進むよう告げられた。帝国に戻れば、死刑台が待っている。追放に処せられた者は今後一切、一歩も帝国に足を踏み入れてはならないと定められていた。
   生きたい訳でもない。
   だが、帝国に戻りたいとも思わない。
   だから、刑吏達の言葉通り北に進み、ビザンツ王国に入った。もしビザンツ王国側の国境警備隊に見つかっていたら、忽ち撃ち殺されていただろう。
   身分証明も無きままに他国の国境を越えたら、銃殺されても仕方の無いことだった。追放に処せられるとはそういうことであって、死を宣告されたのと殆ど変わらない。この国で殺されても構わないと思っていたのに、警備隊は待ち受けてはいなかった。

   考えてみれば、ビザンツ王国は、他国と比較すれば帝国と親交が深い。軍部同士の繋がりもあるから、もしかしたらヴァロワ卿が策を講じたのかもしれない。俺が此処に来る時間帯の警備を少し緩めてほしい、と。それぐらいはやりかねない人だ。より勘ぐれば、追放先がこのビザンツ王国だったのも、彼の策なのかもしれない。


   いろいろと考えながら深い森のなかを歩き、いつしか小さな村に辿り着いた。雪の中を歩いている俺に声をかけてくれた人も居た。俺は何も言わぬまま、さらに北上を続けた。死んでも構わないと思っているのに、死にたいとは思えなくて、腹が減れば近くの店に入り、寒さが耐えられなければ宿を求めた。
   もし、持ち金も無ければ疾うに凍死していただろう。追放に処せられる者は、本来ならば、金銭すら持つことが出来ない。身ひとつで帝国外に放り出されることになる。
   それが追放される前夜、ヴァロワ卿が牢にやって来て、封筒を手渡した。胸のポケットに入れて持っていけと言う。何かと思ってそれを開けてみれば、1000ターラーの小切手だった。
『ヴァロワ卿……。これは……?』
『パトリックから預かったものだ。邸の者は皆、お前のことを案じている』
『……受け取りません。このまま突き返して下さい』
『馬鹿を言うな。身ひとつでこの寒さのなか北方に投げ出されてみろ。如何に頑丈なお前でも三日と持つまい』
『それでも構いません。……もう何もかもどうでも良い』
『お前らしく無いことを言うな! 金があれば、身の振り方は異なってくる。良いか、これは確りと持っていけ』
『兄の差し金でしょう。私は兄から援助も受けたくない』
『私は今日、パトリックからそれを頼まれたんだ。それ以上のことは知らない』
   パトリックが根回ししたというのか。ではもしかしたらあの時、フリッツとパトリックが駅にいたのも、俺とマリを助けるためだったのか。
   否、そうだとしても俺が新トルコ王国に向かうであろうことを考えつくのは、兄だけだ。そうなるとこれはやはり兄の差し金だということになる。
   ヴァロワ卿に受け取らない旨をもう一度告げると、ヴァロワ卿はぐいと胸ぐらを掴み、俺の胸の内側にそれを押し込んだ。
『ハインリヒ、意地を張れば命にかかわる事態を招くことになる。口惜しいかもしれんが、今はそれを持っていき、今後の資金としろ。出立前に所持品検査があるが、その時には私も立ち合う。それからこれを……』
   ヴァロワ卿は俺がマリと逃亡した時に持っていた財布を手渡した。同じようにポケットに忍ばせておけと言う。
『ヴァロワ卿……』
『出来ることならお互い平和に退役したかった。こんな形で別れることになるのは残念だが、お前なら必ず新たな道を進むことが出来る。私を落胆させてくれるな』
   そして、翌早朝の所持品検査では、ヴァロワ卿の監視の下、ポケットの中を調べられることもなく、俺は監獄を後にした。別れ間際、ヴァロワ卿は生きろ、と言った。俺はそれに応えることもなく、ただ一礼して、ヴァロワ卿の前を去った。



   ヴァロワ卿が気を利かせて持ってきてくれた財布には、当座の生活には困らない程の額が入っていた。マリを連れ逃亡する前、その資金として俺が用意したものだった。うまくいけば、新トルコ王国に逃げて、マリと共に其処で暮らすつもりだった。
   あと少し――、あと少しで逃げ切れるところだった。電車に乗り、国境さえ越えてしまえば良い。それなのに、最後の電車に乗り込もうとした時、憲兵達と鉢合わせた。仕方無く別のルートを取ろうと駅を出たところで、フリッツ達と出会った。あの時は、彼等も俺達を捜しに来たのだろうと思った。兄の命令で。
   フリッツ達が手招きするのを見て見ぬ振りをし、マリと共に駆け出そうとした。止まれ、と背後で声がして相手を蹴り倒そうとした時、マリの手が俺の手を掴んだ。
『もう良い。ロイ。もう良いの』
   マリは涙を浮かべてありがとうと礼を述べた。父から逃げられる筈が無かったの――そう言うと、マリは背を正して一歩前に出て、憲兵達に言い放った。
『宮殿に戻ります。その代わり、ハインリヒに乱暴な振る舞いはしないで』
   あの時、マリを抱いてでも逃げていたらどうなっていただろう。逃亡に成功していただろうか。今頃、新トルコ王国で住処を定め、新たな生活を始めることが出来ていただろうか。
   それとも結局は捕まっていただろうか。


[2009.10.17]