皇女マリは午後8時を過ぎた頃、宮殿に戻って来た。侍女や秘書官達が安否を気遣うなか、皇女はすぐに皇帝の許に向かったのだと、オスヴァルトは教えてくれた。
   一方、ロイはすぐに収監された。帝都の東端にある牢獄に連れて行かれた。これから取り調べを受け、それから皇帝が処罰を下すことになる。
   皇帝のあの様子では減刑は見込めないだろう。そればかりか、今日中にも処刑が言い渡され、明日には執行されるかもしれない。
「閣下。少しお食事を摂ってからお休み下さい」
「……ああ」
「先程もそう返事をなさって、何もお食べになっていないではないですか。閣下が今、御倒れになったらハインリヒ様の件はどうなさるのです」
「……何があろうと、陛下の決定を覆すことは出来ん……」
「ヴァロワ長官もまだ奔走なさっている最中です。閣下がお望みを捨ててどうなさいますか」
「私には何の力も無い。陛下を宥めることも、弟一人の命を救うことも出来ない」
「閣下らしくない御言葉です。少しずつでもこの帝国を変えていくと、仰っていたではないですか」
「変えられないのだ。オスヴァルト。専制に阻まれて、私は何も変えられない」
「たかだか一度の失敗で何を落胆している?」
   扉の方からヴァロワ卿の声が聞こえて、振り返った。ヴァロワ卿は今皇帝と面会してきたばかりだと言いながら、側に歩み寄る。ロイの助命嘆願書を集めて、皇帝に提出してきたのだと言った。
「お怒りが凄まじく嘆願書もはねのけられたがその場に置いてきた。あの様子では此方の願いを聞き入れてもらうのは厳しそうだが……。しかし、宰相とハインリヒを面会させることだけは許可を貰ってきた」
「ヴァロワ卿……」
「今から行こう。陛下のお気が変わらないうちに」
   今会わなければ、もう二度と会えないかもしれない。
   頷いて立ち上がると、ヴァロワ卿はすぐ車を出す旨を告げた。



   宮殿から車で30分ぐらいのところに牢獄がある。見た目にはそうと見えないが、囚人管理が厳しいことで知られた牢獄であり、脱走した者はその場で射殺しても構わないとされている。ロイはこの牢獄の独房に入れられていると聞いた。
「私は看守の許に居る。ハインリヒとゆっくり話してくれ」
   ヴァロワ卿はこの牢獄の長に私を紹介してから、刑吏の一人に案内を頼み、自分はその場に残った。
薄暗い場所だった。階段を上った二階の奥にロイが居ることを、案内を務めてくれた刑吏は言った。刑吏は二階の一番奥まで進み、其処にある扉の鍵を開け、中に入る。その後をついていくと、鉄格子の中に座るロイの姿が見えた。
「ロイ……」
「私は扉の外に待機しています。終わりましたらお声をかけてください」
   刑吏はそう告げると、鉄格子に背を向けて扉の方に歩いていった。ギィと音を立てて扉が閉まる。
   ロイは此方を見ることなく、牢の壁に背を預けて座っていた。見ると、両手と両足に重い枷がつけられていた。
「ロイ……」
「愚かな弟の顔でも眺めに来たか?」
   ロイは言い捨てるようにそう言った。
「……マリ様と共に逃げたのだと解った時、このまま見つからなければ良いと思った……」
「あと少しのところだった。俺はお前に命じられて追手をかけられたのだと思ったが」
「そのようなことをするものか!お前を窮地に陥れるなど……!」
「ならば何故、あの場にフリッツとパトリックが居た?」
「あれは……」
   お前を逃がすためにフリッツとパトリックを差し向けたのだと言いたくとも、この声が何処に漏れるかも解らない。扉の外で待ち受ける刑吏に聞かれたら、フリッツ達にまで罪が及ぶ。
「お前は皇帝の言いなりだ。お前のことなど信頼しないし当てにもしていない」
「ロイ……」
「失敗した時には死刑だと覚悟して実行したことだ。俺に悔いは無い。マリにも危害は及ばん。宮殿に帰ったら、俺が誘拐したことにしておけと言ったからな」
「ロイ……!何故……何故、自分を窮地に追い込むような真似をした!?」
「いつまでも皇帝の意のまま、機嫌伺いをするだけ。そんな帝国で暮らすことに嫌気が差した。新トルコ王国にでも逃げて、新しい生活をしようと思ったが、それさえも絶たれたとなれば、もう何もかもどうでも良い」
「馬鹿なことを……」
「馬鹿はお前だ。権力にしがみついて何になる?そんなに皇帝と同等の権力を得たいか?」
   ロイは漸く顔を上げ此方を見た。真っ直ぐに見つめる。まるで此方の心を読むかのように。
「……違う」
「では何故、マリとの婚約を承諾した?命令だからか?皇帝の命令ならば、お前は平気で弟の恋人を取るのか?」
   すぐに否定出来なかった。今この瞬間、ロイに見つめられているのが、心苦しかった。ロイは心のままに行動しただけなのだと思うと、ただ皇帝の威信に竦められている自分自身が非常に情けない存在に思えてならなかった。
「……まあ良い。お前はお前の生きたいように生きれば良い。ただ、俺はお前のような生き方は御免だ。まあもう数日の命だろうがな」
「ヴァロワ卿が助命嘆願を陛下に願い出てくれた。私ももう一度陛下に嘆願する」
「無駄なことだ」
「やってみなければ解らん!……たとえお前がどのような刑に処されようと、私はずっと待っているからな……!」
「……好きにするが良い」
   ロイは吐き捨てるように言って、また視線を落とした。
   扉が少し開いて、まだ時間がかかりますか、と刑吏が問う。ロイは行け、と私を促した。
「また……来る」
「もう無理に決まっている。おそらく今回の面会もヴァロワ卿が取り付けてくれたのだろう。それに俺ももうお前と会いたくない」
「ロイ……」
「二度と来るな」
   もうこれ以上、話が出来そうになかった。何と声をかけて良いかも解らない。こうなったのは全て私の責任なのだと思うと、言葉も出なかった。
   扉に向けて歩みを進める。刑吏が扉を開け放ち、出ようとした時、ルディ、とロイが名を呼んだ。久々にその名で呼ばれた。
「マリを……、不幸にしないでくれ」
「ロイ……」
   その言葉を聞いて、私は自分が情けなくて堪らなくなった。私はこれまで、自分の意志の赴くままに生きてきたと思っていた。だが、それは大きな間違いであったことを思い知らされたようだった。行動力と決断力があると称賛されてきた。それは違う。その証拠に、私は今、何ひとつ出来ないではないか――。


[2009.10.9]