私には一人の近衛兵が付き添った。皇帝の執務室から宰相室までの短い距離でさえ、私の行動を見張るということらしい。宰相室に入っても、彼は部屋の片隅に立っていた。
「閣下。一体何があったのですか?」
   その異様な光景に、オスヴァルトが近衛兵を見遣りながら問い掛ける。皇女マリとハインリヒが行方不明なのだと告げると、オスヴァルトは眼を見開いて何故二人が居なくなったのかを尋ねて来た。
「……二人が一緒なのか、それとも偶然同じ時期にいなくなったのか、それは解らない」
   近衛兵のいる前では、そうとしか応えようが無かった。
「では閣下。このような場所に居るよりもハインリヒ様をお捜ししたほうが……」
「陛下に此処での待機を命じられたのだ」
   オスヴァルトは流石に不審に思ったのだろう。近衛兵を見遣り、それから何か言いかけた。それを止めたのは、誰かがやって来たからだった。コンコンと扉を叩く音にオスヴァルトは返事をする。すると扉が開き、大柄で均整の取れた身体つきの男が現れた。軍務省のジャン・ヴァロワ長官だった。
「宰相。聞きたいことがあるのだが宜しいか?」
「ええ。私が其方に伺おうと思ったのですが、陛下に此方での待機を命じられていまして……」
   ヴァロワ卿は近衛兵を見て、退室するよう促した。近衛兵は戸惑った様子で、陛下の御命令ですと応える。
「陛下の御命令に背くのではない。私がお前の代わりに、宰相が此処に居ることを見張れば良いのだろう。少し席を外してくれ」
「しかし、長官……」
「それほど気にかかるなら、部屋の外で待っていろ。良いな」
   若い近衛兵はヴァロワ卿の命令にも逆らえなかったのだろう。敬礼してから、彼は部屋の外に出て行った。それからヴァロワ卿は此方に歩み寄る。
「マリ様の失踪とハインリヒの失踪は関連しているのか?」
   ヴァロワ卿はロイとも親しく、邸にも訪れることが何回となくあった。私がこの夏に倒れた時にも見舞いに来てくれた。官吏のなかでも、ヴァロワ卿とは特に親しく付き合っていた。
「……これまでのことをお話します。オスヴァルトも聞いてほしい」
   この部屋は防音措置が敷かれてあって、中での話は決して外に漏れることはない。それでも念をいれて彼等を奥の客室として使用している部屋に招き入れた。二人と向かい合って座ってから、話を切り出した。

「マリ様とハインリヒはおそらく行動を共にしています。原因はこの私にあることです」
「婚約に関することか?ハインリヒは反対だったのか?」
「マリ様とハインリヒは、一度は皇帝に婚約を認められた仲でした」
   ヴァロワ長官もオスヴァルトも驚いた様子で眼を見開いた。皇女マリとロイとの仲について、これまで誰にも話したことはなかった。ロイもそうだったのだろう。
「婚約の話はフアナ様がお亡くなりになる前……ちょうどそのひと月前のことでした。それが、フアナ様がお亡くなりになり、続いてエリザベート様までもがお亡くなりになりになったことから、陛下は残る継承者のマリ様の相手には、武官よりも政治に長けた者の方が良いと仰って、弟ではなく私に結婚の話を持ちかけたのです」
「そんなことが……あったのか……」
「ええ。悩みましたが陛下の申し出を受け入れることにした結果……、今回の事態となりました」
「私はすぐに申し出を受け入れたと聞いていたが……」
「陛下の御命令でしたから……。噂もそのように流れたのでしょう」
「断る余地も無かったということか……。ならばハインリヒが皇女を連れ出すなど突飛も無い行動に出るのも得心がいく……」
「断る余地が無かった訳ではありません。私がこの職を辞す覚悟があれば、申し出を断ることも出来た筈です。しかし私は出来なかった……」
「それは閣下の責任ではありません。陛下の御命令ならば、拒むことは出来ないのですから」
「ハインリヒの気持も解るが、ハインリヒが愚かだ。皇帝が全権を握るこの国にあって、皇帝に逆らえばどうなるかハインリヒ自身もよく知っている筈だ。それなのに、あいつは帝国内を逃げ切るつもりか。それも皇女を連れて。如何に勇猛果敢だとはいえ、監視の目それほど甘くは無いぞ」
   ヴァロワ卿はオスヴァルトに向かって、地図はあるかと尋ねた。オスヴァルトは席を立ち、隣の部屋から帝国内の詳細な地図を持って来る。それを机の上に広げて、ヴァロワ卿は指差した。
「鉄道は全て見張らせている。その他、車での移動も考えて検問も行っている。帝都では其方の邸宅はじめ、陛下がお命じになったところを中心に捜索しているところだ」
「捕まればロイは死刑に処せられることは間違いありません」
「解っている。だからせめて逃げやすいよう抜け道を作っておいてやりたいと思っている。このようなことでハインリヒが命を落とす必要は無い。これまでハインリヒはどれだけ帝国のために尽力してきたか」
「率直に言えば、ロイ一人なら逃げ切れると思うのです。しかし、マリ様も一緒となると何処まで逃げ切れるか……」
「どの方面に向かっているか、予想はつくか?」
「おそらくは、東……新トルコ王国に向かっています。移動手段は車ではない筈です」
「では東の方は道路を見張れと言っておこう。それから……」
   ヴァロワ卿の指が地図の上を進んでいった時、携帯電話が鳴った。胸の内ポケットにいれておいたそれを取り出すと、画面にはフリッツの名が表示されていた。

   ロイと接触できたのか――。
   受信ボタンを押すと、フリッツの声が聞こえてくる。フリッツは声を潜めて言った。

「ハインリヒ様がたった今、捕まりました。ちょうど私達が見つけた眼の前で――。間に合いませんでした。フェルディナント様――、申し訳御座いません」


   ロイが捕まった。


   声が出なかった。フリッツが何か言っていたが、何を言っているのかさえ解らなかった。
   ロイが捕まった――。


「宰相……?」
   力が抜けていく。脱力感に襲われ倒れ込みそうになるのを、何とか踏みとどまろうとすると、オスヴァルトが横からそっと手を貸してくれた。
「まさか……捕まったのか……?」
「たった今……、捕まったそうです。すぐ此方にも連絡が……」
   眼が眩む。こんな時に倒れている場合ではないのに、身体が動かない。
「確りしろ、宰相!ハインリヒの助命嘆願をこれからすぐに集める。貴方からも確りと皇帝にお伝えしろ。今出来るのはそれだけだろう」

   程なくして宰相室に連絡が入った。
   皇女マリとロイが駅近くの路上で見つかった――と。予想していた通り、二人は新トルコ王国へ向かっていた。その駅からの電車は新トルコ王国まで接続している。おそらくはその電車に乗り混もうとしたのだろう。
   今、二人共に宮殿に送り返されているところだと言う。今日中には帝都に戻ってくるだろう。
「閣下……」
「陛下の許に……行ってくる」
   ヴァロワ卿は既に部屋を去った後だった。この身を案じるオスヴァルトに大丈夫だと告げて立ち上がり、宰相室を出た。
   ロイの助命嘆願を願い出る代わりに、この私の職務を辞す。それが今回の一件の責任の取り方だろう。それでもロイは死刑は免れないだろう。仮に免れたとしても、ロイは国外追放されてしまうかもしれない。何十年もの禁固刑を科せられるかもしれない。だがそれでも、私が待ってやれば良い。何年でも何十年でも。
「失礼致します。陛下」
   皇帝の執務室では、秘書官と共に皇帝が待ち受けていた。皇帝は此方を厳しい眼で、一瞥した。
「ハインリヒはマリを拐かしたという。如何にお前が懇願しようと、私の意志は揺るがぬぞ」
「陛下。何卒お許し下さい。今回の一件は私にも責任のあることです」
「お前と婚約中の身のマリが、お前の弟と逃げたなど他省の長官にも聞かせられぬ。お前にはお前の責任を取ってもらう」
「……御意のままに。ですが陛下、どうかハインリヒには減刑を……。マリ様をお慕いすればこそ、ハインリヒは……」
「マリはこの私のものだ!ハインリヒが慕う?家臣の分を弁えよ!」
   喉元まで出かけた言葉を飲み込む。つい数ヶ月前まで、ロイは皇女マリの婚約者と認められていたではないか。それを今になって、家臣の分という言葉で否定するのか。
   ロイはどんな思いで皇女を連れだしたか、この皇帝は本当に解っていないのではないか――。
「……申し訳御座いません」
「お前には再び宰相室での待機を命じる。私が命じるまで宮殿から出るな!」


[2009.10.4]